■古代(~12,000年前)、縄文時代(12,000~2,000年前)、弥生時代(2,000~1,800年前)
■ 律令制の時代~鎌倉・室町時代
■ 戦国時代~江戸時代
■ 明治時代以後
■ 電子博物館 みゆネットふじさわ
■古代(~12,000年前)、縄文時代(12,000~2,000年前)、弥生時代(2,000~1,800年前)
二万年前の岩宿(旧石器)時代から近世・近代にいたるさまざまな遺跡や考古資料が、慶應義塾湘南藤沢キャンパスのほぼ全域から発見されている。
古代の相模と藤沢の地形が出来上がっていく様子を下図に示す。なお、江ノ島は約7万年前に海上に隆起した。
■ 律令制の時代~鎌倉・室町時代
古代藤沢が初めて記録に登場するのは天平七年(735)、鵠沼辺りと推定される「土甘郷(とがみごう)」が見える。また片瀬郷から朝廷に布が献上され、延喜式には大庭神社と宇都母知神社が見える。鎌倉権五郎景正は境川から相模川に至る高座郡の南部一帯を開発し、荘園として伊勢神宮に寄進した(大庭御厨:おおばみくりや)。
頼朝挙兵に際して、大庭景親は平家方として参戦、片瀬河原で斬首された。時宗(じしゅう)の開祖一遍は、鎌倉入りを阻まれ片瀬で踊り念仏を行うなどして布教を行う。正中二年(1325)、遊行四世呑海は藤沢道場(清浄光寺-通称遊行寺)を開山。以後遊行寺は戦乱のためたびたび淡上。
図は歌舞伎「暫(しばらく)」の主人公、鎌倉権五郎景政(豊国画、神奈川県立博物館蔵)
■ 戦国時代~江戸時代
永正九年(1512)、小田原の北条早雲は玉縄城を築城、三浦氏に備えるなどし、関東侵路の重要拠点とした。江の島は古来霊地として縁起などにも描かれているが、小田原北条氏は信仰の島としてだけでなく軍事的な重要拠点として関銭(せきせん)などを徴収して保護した。
天正十八年(1590)、小田原北条氏が滅び家康が関東に入ると、御殿と陣屋が置かれ地域支配の拠点となった。また東海道が敷かれ、藤沢宿が置かれ伝馬の常置が義務づけられ、交通の要衝として、大山や江の島参詣の足場として栄えた。藤沢宿は近世後期になると地域の商品流通や文化の拠点となり、幕末には打ち壊しや”ええじゃないか”騒動があり、人々の世直し意識が高揚した。
近世藤沢には様々な道が走っていた。五街道の一つ東海道。脇往還の中原街道、八王子街道。信仰の道としての大山街道、江ノ島道などが主な道としてあげることが出来る。
次の絵は藤沢宿(旅籠宿)の様子。手前は境川と大鋸橋、左に江の島道一の鳥居。右に高札場がみえる。(広重画、神奈川県立博物館蔵)
参考資料:
「図説 ふじさわの歴史」 発行 藤沢市(藤沢市文書館)
■ 明治時代以後
藤沢における最大の文明開化は、明治二十年(1887)の鉄道開通、明治三十五年(1902)の江ノ島電気鉄道の開通であった。
明治二十二年(1889)の市町村制により市域を含む九カ町村が誕生。明治四十一年(1908)に藤沢大坂町、鵠沼村、明治村を廃止し、その区域に藤沢町が誕生。昭和十五年(1940)には市制が施行された。その後次第に周辺町村を合併編入し、昭和三十年(1955)、現在の規模となった。
浮世絵に描かれた鉄道(神戸市立博物館蔵) 七里ヶ浜を走る江ノ電