辻堂南の古道を訪ねて
前回、大山道の入り口、四谷 立場の一の鳥居を取材した時、江戸時代、辻堂南の寶泉寺は、大山詣の帰りに、必ず参詣する寺として賑わってた、という事で、今回は、辻堂南の古道を歩いてみました。
| 前回、大山道の入り口、四谷 立場の一の鳥居を取材した時、江戸時代、辻堂南の寶泉寺は、 大山詣の帰りに、必ず参詣する寺として賑わってた、という事で、今回は、辻堂南の古道を歩いてみました。 |
| 大きな地図で見る | 辻堂駅南口 → 寶珠寺 →日枝神社→ 阿弥陀堂→ 寶泉寺・ 諏訪神社 →白山神社→ |
| 寶珠寺 | 明王院寶珠寺は、JR辻堂駅より元町方向に進み、元町商店街を通りぬけ更に進みます。左にNTTが見えそれを過ぎて四つ路にさしかかります。そこを左折、しばらく行くと左側に宝珠寺があります。俗称「北の寺」と呼ばれ、八松山明王院と号し、不動明王を本尊としています。源頼朝の勧講の寺とされ、文治年間(1185~90)に元朝が開山したと伝えられます。 |
| | 境内には多数の石像物があります。なかでも5つある庚申塔のうち、 本堂の手前脇にある寛文6年(1665)のものは市から民俗文化財に指定されています。 見ざる言わざる聞かざる の三猿が、彫られています |
| 庚申信仰とは 庚申信仰は、十干十二支の組み合わせによって、60日に一度めぐってくる 「 庚申の日 」 に、 その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。 「 人の体内にいる三尸(さんし)の虫が、庚申の夜、天に昇って、その人の罪科を天帝に告げるため、 生命を縮められる 」 とする中国の道教の教えに由来している |
| 日枝神社 | 寶珠寺を出て、来た道を四つ路まで戻ります。 四つ路をそのまま進み、暫くすると左側に日枝神社があります。 山王社ともいい、祭神は大山咋命。真新しい社と公民館がありました。 |
| | 境内には1789年銘の小さな双体道祖神があり、 右が男、左が女。 (双体道祖神、直衣姿の男神女神が袖の中で合掌している姿。) この道祖神は細かい彫りが良く残されている 寛政元年(1789)造 | | 阿弥陀堂 | 双体道祖神 |
| さらに進み道は四つ路に出るが、真っ直ぐに進むと大きな銀杏樹が見えてくる。ここが阿弥陀堂。 慶長年間(1596~1615)に建立されたと、言い伝えられています。 大きな銀杏の樹が2本あり、秋になると銀杏がたくさんなるそうです。 同堂の由緒縁起創立年代は不明。
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| | 辻堂の地名と歴史 | ここら辺りは藤沢道、上村道であったといいます。 藤沢市による案内看板があちこちに点在しています |
| | | 辻堂と言う地名がいつ頃から起こったものかは、諸説があり定かではありませんが、辻に御堂があってそう呼ばれるようになったことは間違いないようです。 その御堂の位置は周辺に旧家が残り、旧鎌倉街道と村の道との交差点であったこと等から、寶泉寺(俗に南の寺)であろうと言う説が有力になっています |
| 藤沢道(ふじさわみち) 別名上村道(かむら道)・山道(やまみち)ともいい、藤沢への買い物や、遊行寺の開山忌に出かける時に利用されました。この阿弥陀堂の前を通りガル池、高山の境をぬけ上村橋をわたり 車田で東海道と出会います。 |
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| 寶泉寺・諏訪神社 | 俗に「南の寺」と呼ばれ、海龍山観音院と号し、聖観音を本尊としています。 旧辻堂村、いわゆる鎌倉街道の中央にあたる四辻の近くにあります。 江戸時代、大山詣での行者はその帰り道、南の寺を真言道場として参詣しないと 「げん(縁起)」が悪いとされ、毎年、夏の大山詣での時期には白衣の行者で、 昼も夜もにぎわっていたと言うことです。 源頼朝の勧請の寺とされ、創建は建久年間(1190~99)。 その後火災や関東大震災等で倒壊しましたが再建されました |
| | | 諏訪神社 宝泉寺のすぐ横には、1159年(平治元年)に創建された諏訪神社がある。 辻堂の総鎮守として崇められてきた。神社周辺に、末社である八幡神社・白山神社・日枝神社・八松稲荷神社などが点在しています 御神木(欅) 社殿新造のための造成中に掘り出された樹齢500年ともいわれる欅の根。 諏訪神社の発展と氏子の繁栄を祈願して奉納された。 |
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| 白山神社 | この辺り一帯は大きなお屋敷と、新興住宅が混在しています。 お屋敷に挟まれた細い路地の入り口に、白山神社入り口と言う石の塔を見つけました。 道の幅は1m位です。この道の先に?と思いながら20mほど入ると白山神社がありました。 木立に囲まれた祠に、三島社と白山社が合祀されています。左側には元弘3年(1333年)の 鎌倉攻めのときの戦死者の慰霊塔が建てられています。 |
| | | | 「源平盛衰記」には寿永2年(1183年)佐々木四郎高綱が木曾義仲追討のために上洛の折に「十七騎にて稲村、腰越、片瀬川、砥上が原、八松原馳通し・・」と記してあり、高山遺跡や諏訪神社建立の時期を考えると、前述の「八松原」は、「源平盛衰記」の記述や「八松稲荷」、宝珠寺の山号「八松山」等から考えると、ほぼ当地を指していると思われます |
| 後記 | 北の寺(寶珠寺)から阿弥陀堂・八松稲荷神社・社宮神・白山神社・八幡神社、 そして、南の寺(寶泉寺)まで、静かに歴史を刻んでいる住宅街を歩きました。 12世紀には、集落が形成されていたらしいのですが、 今も人々の日常の中に、歴史の息吹が、しっかりと息づいていると言う実感でした |
| 記 happyrarasan | |
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