趣  味
 

enopo top moji

趣 味・歴史

歴史探訪4 大庭御厨(おおばみくりや):
大庭氏三兄弟ゆかりの地をたずねて

2020年10月15日  (itazu)
前回、鎌倉権五郎景政が,12世紀始め、茅ヶ崎から藤沢にかけて開発した広大な荘園、大庭御厨の総鎮守であった①鵠沼皇大神宮を訪ねました。今回は、その御厨を支配した大庭氏三兄弟(大庭景義(かげよし)、大庭景親(かげちか)俣野景久(かげひさ))の館跡、神社を訪ねます。
1                     <庭御厨想定範囲(黄色の部分)> 
この御厨地域は鎌倉景政が開発して以来、景政の直系で、大庭を名乗った大庭景継、大庭景宗が管理・運営していました。大庭景宗の子世代に、平家物語などで有名な大庭景義大庭景親俣野景久の兄弟がいますが、それぞれ懐島(ふところじま)(茅ケ崎円蔵)、大庭俣野を拠点に御厨を管理しています。
今も、それらの拠点には、館跡、城址などとともに、⑥神明大神③大庭神社④御嶽神社が、それぞれゆかりの神社として残っています。(上図参照)
 
大庭景宗の時(1144年)、源義朝(頼朝の父)が、大庭の御厨のうち、鵠沼一帯を義朝の領地(鎌倉郡の一部)であるといいがかりをつけて侵入し、御厨の荘官や伊勢神宮側と争乱を起こする事件がありました。
御厨として寄進していても、現地支配の力関係で不安定で抗争が絶えない状況にありました。
義朝の力に屈したのか、景義景親兄弟は、都での保元の乱*でともに源義朝の軍に属し戦っています。このとき、源為朝(義朝の弟なれど敵対)の矢をうけながらも命を長らえた景義の武勇談(保元物語「為朝、唯一の射損じ」)が残されています。兄の景義が戦傷したため、御厨は弟の景親が管理します。
*(保元の乱:1156年崇徳上皇と後白河天皇の対立で、平清盛と源義朝は後白河天皇の主力軍として戦い勝利した。この乱は武士の政界進出大きな契機となったといわれる。)
 
<大庭神社-景親>
景親の拠点は、①鵠沼皇太神宮に近い②大庭城址③大庭神社です。
                               ②大庭城址(説明立札と堀立柱の建物址)
                               ②大庭城址の案内立て札には、「大庭氏の拠点であったと伝えられますが明かな記録はなく15世紀太田道
灌が本格的な築城を行った」ものと書かれています。
                               ③大庭神社②大庭城址と引地川を挟んだ小山にあり「大庭三郎景親」が祀られている。
                               ③大庭神社にある鐘楼
 
保元の乱の後、平治の乱*で源義朝が敗れると、景親は平家に臣従し、逆に、源氏が支配していた鎌倉へ攻撃をかけ、源氏側の三浦一族と争います。
(*平治の乱:1159年藤原信西対藤原信頼、源義朝対平清盛の勢力争いで、源氏は平氏に敗れ、義朝は敗死。)

1180年(治承4)の源頼朝挙兵に際しては,いちはやく頼朝に参じた兄の景義とたもとをわかって、景親は平家方の総大将となり,弟の俣野景久とともに石橋山で頼朝軍を破ります。
平家物語では、頼朝の挙兵を平清盛に知らせるために早馬を送ったとされる「大庭が早馬」が有名です。

<御嶽神社-俣野景久>
末弟の俣野景久が拠点とした俣野には、館の跡は定かではありませんが、ゆかりの④御嶽神社が境川沿いの西俣野に残っています。
由緒には
「1117年鎌倉五郎がこの地に堂を建立、伊勢神宮(20年に1回造営)の御柱を戴き、これに大日如来・不動明王を安置。1195年、俣野五郎景久が崇敬するところとなり、燈明料として田地寄進。その後、景久没後、景久の妻の願いにより頼朝より田畑の寄進あり(旧記吾妻鏡紀稿)」とあります。
さらに、景久には、境川の東俣野の鎌倉街道上道沿いに⑤俣野観音堂が残っています。
                               ⑤俣野観音堂
                               説明立札
この説明書きによれば、石橋山の合戦で、景久は、兄大庭景親とともに頼朝を敗走させたが、その後復活した頼朝と木曽義仲に敗れ、守護仏だった観音像をこの地に納めたとあります。(木曽義仲との戦については、平家物語の「篠原合戦」で景久は登場します。)

<神明大神-大庭景義>
一方、兄の景義は、平家側についた弟たちと袂を分かち、頼朝側についたため、平家が亡び、弟の二人(景親景久)が頼朝に処刑され(景親)、戦死した(景久)のちも、頼朝の重鎮として鎌倉幕府に重用されています。
「懐島(ふところじま)」といわれた茅ヶ崎の円蔵周辺を安堵され、そこに館を構え、大庭御厨を管理しました。
                               ⑥神明大神
                               懐島館跡(景義の像)
                               ⑦宝生寺の「えな塚」(碑には、島津氏の祖、忠久のえな(胎盤)が埋めてあると書かれていますが、景義の墓とも伝えられる)
兄弟が、源氏と平氏に分かれて臣従したのも、大庭氏を守るため、どちらかが生き残る配慮があったではないか、といわれています。景義死後、息子の景兼が、和田氏と北条氏の御家人同士の争いに巻き込まれ、和田氏についた大庭氏はともに没落しました。その後、大庭御厨は、三浦氏や北条氏・幕府の管轄することになり大庭の名前は出てこないそうです。(「大庭御厨に生きる人々」藤沢市史ブックレット6)

以上、藤沢、茅ケ崎の大庭御厨を支配した大庭氏の3兄弟ゆかりの史跡を訪ねました。歴史探訪記1~4まで、源平の争乱や源頼朝の鎌倉幕府誕生に大きな役割を演じた相模の武士団の歴史を辿ることができました。三兄弟は、保元・平治物語、平家物語にも登場しており、歴史のロマンを感じながらの探訪記を楽しむことができました。

(記事作成に当たっては、「大庭御厨に生きる人々」藤沢市史ブックレット6、相模のもののふたち(永井路子)など参照しました。)
 

記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。   markenopo 2020年10月22日