趣  味
 

enopo top moji

趣 味・歴史

北条玉縄城址を訪ねる

2020年12月25日  (itazu)
藤沢の東、相模台地の南端、大船駅北側の城廻の丘陵(現・清泉女学院)に玉縄城址があります。玉縄城は、戦国時代、1512年、小田原から鎌倉へ進出し相模国を平定した北条早雲が築城した平山城です。
1東は大船から、西は藤沢の遊行寺近くまで広大な北条氏の玉縄城群がありました。
早雲は、小田原から相模進出の際、東相模に絶大な力を持つ三浦氏や上杉氏との戦いの中で、大庭城を陥落させ、さらに三浦方面、江戸・北相模方面を防御するために玉縄城を築き始めました。
①玉縄城は、相模台地南端の平均50mの丘陵で、東と南は柏尾川、西は滝川が流れる村岡郷にありました。
出城として、東は③長尾砦、西南は、④二伝寺砦、⑤高谷砦(村岡城址)、⑥御幣(おんべ)砦があり、江戸・北相模方面の防御とともに東海道と鎌倉を結ぶ交通の重要地点で、中世都市鎌倉に入る口を押さえていた広大な丘城群であったことがわかります。

西の御幣(おんべ)砦は、遊行寺と滝川を挟んだ台地にあり、玉縄城を拠点とする後北条の相模制覇に伴う戦乱で、藤沢とその周辺は、戦災を蒙り、遊行寺も1513年、全焼しています。
この戦禍を契機に、遊行寺の門前町を主軸とした藤沢も、北条氏下の宿場町に転換をしていっており、現在、玉縄城址がほとんど形を残していませんが、藤沢に与えた歴史的な影響は大きなものがあります。
今回、この出城跡(上図①~⑥)を訪ねてみることにしました。
 
                               城廻の清泉女学院の敷地境に玉縄城祉の案内板があります。
①玉縄城本丸跡
城が築かれた場所は、相模台地南端の丘陵:城廻(現・清泉女学院)で滝川、柏尾川が東西南北を流れ、一度も陥落されることはなかった難攻不落の山城でした。江戸時代は、相模国玉縄藩主、本多正信の居城でしたが、1619年に廃城となりました。跡地には「清泉女学院」が建ち、学校の敷地内にあるため、見学には学校の許可が必要となっています。
 

龍宝寺
②龍宝寺
1503年玉縄城主北条綱成が建立した寺院で、孫の氏勝が1575年にこの地に移しました。玉縄北条氏の菩提寺として本堂には、歴代玉縄城主が安置されています。
山門の入り口に、「玉縄民俗資料館館」があり、玉縄城関係の資料や城址の立体模型などが展示され、広大な城址の全体像を知ることができます。
 

高台を登ったところに長尾氏の城址だったと言い伝えられている笹山
③長尾砦
平安末期、長尾氏の城があったところです。高台を登ったところに城址だったと言い伝えられている笹山が農地の間に残されています。
見晴らしのよい柏尾川沿いの高台で、砦としての最適な地だったことがうかがわれます。
ここにあった長尾定景一族の墓石群は、現在、鎌倉市植木にある久成寺(くじょうじ)に移されています。
 

二伝寺
④二伝寺砦
玉縄城から尾根続きで地域で一番高いところにあり、加えて旧鎌倉街道に沿っていたので玉縄城の砦の役割を担うために創建したと案内には記されています。
板東八平氏の祖、平良文(村岡五郎)の墓所があります。この近辺に村岡城址があったとの言い伝えにより、良文、忠光、忠通3代の墓所が残っています。
 

村岡城址公園の城址碑
⑤高谷砦(村岡城址)
村岡城址公園には城址碑が建っており、秩父平氏渋谷の末裔といわれる日露戦争の英雄東郷平八郎元帥が、城主良文の軍功をたたえた碑文があります。
「村岡城の地位は古来武相交通の要衡に在り、往昔従五位下村岡五郎平良文公及び其の後裔五代の居城なり(以下略)」

滝川沿いに、御幣(おんべ)の名前が残っている公園
⑥御幣(おんべ)砦
遊行寺近くの滝川沿いに御幣(おんべ)公園があります。ここから急峻な台地が南側にあり、今はマンションが建ち大きな団地になっています。ここに御幣(おんべ)砦があったといわれています。
 
東は、大船から西はここ藤沢の遊行寺近くまで玉縄城群があったことになります。北条氏の支城配置は、山地が平野に出た舌状台地の先端に城を築き、同時に街道を城に取り込む例が多く見られるそうであるが(小和田哲男著「北条5大と戦国時代」)、玉縄城もまさに相模台地南端に城があり、しかも、高谷砦と二伝寺砦を抜ける鎌倉街道上道を取り込んでおり、壮大な築城の戦略に驚かされます。

以上の記事は、「藤沢―わが町のあゆみー」(児玉幸多編)、「藤沢と遊行寺」(藤沢市史ブックレット2)など参照しました。

記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。   markenopo 2020年12月22日