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趣 味・歴史

 藤沢敵御方(てきみかた)供養塔ー室町時代の藤沢ーを訪ねて

2021年1月26日  (itazu)
遊行寺境内の旧東海道に面する東門すぐ横に石造りの角塔婆が立っています。これが敵御方(てきみかた)供養塔です。この塔は、争乱の室町時代の藤沢を象徴する史跡です。
1敵御方(てきみかた)供養塔   
この敵御方(てきみかた)供養塔について「藤沢―わがまちのあゆみー」(藤沢市文書館)には次のように説明されています。
「応永23年(1416年)10月、鎌倉を中心に足利持氏打倒のため上杉禅秀の乱が起こり、多数の将兵のみならず軍馬までもが血に染まった。遊行寺にも戦いの火の粉は降り注ぎ、寺で自害するもの、死骸の運び込まれるものなど多くいた。そこで戦乱後三周忌にあたる応永25年(1418年)10月、持氏を施主として、遊行十四世太空上人を導師としてこの供養塔は建立された。」
<室町時代の藤沢は争乱続き>
「上杉禅秀の乱」とは、室町時代、関東を支配していた鎌倉公方*(足利持氏(4代))に対してその補佐役である関東管領*(上杉氏憲(9代))が起こした反乱です。(*鎌倉公方:室町幕府が東国統治のために置いた鎌倉府の首長。)

室町幕府は、3代将軍足利義満のころ、南北朝が合一され安定期を迎えていましたが、京都から離れた関東には、幕府の支配力が弱く、14世紀末から15世紀に入り、支配者の後継争いと絡んで、将軍、鎌倉公方、関東管領、さらにその家宰とそれぞれのの利害が入り乱れ、複雑な権力対立抗争が激しくなっていました。
その引き金になった事件が、この「上杉禅定の乱」です。
全国的に下剋上の戦国時代に突入するのは応仁の乱以降ですが、関東ではそれより一世紀前から不安定な内乱状態が始まり、相模国の在地領主層は敵味方に分かれ戦ってきました。

下図は、鎌倉幕府滅亡(1333年)から、北条早雲登場(1495年)までの約一世紀半の藤沢を中心とした年
表ですが、争乱続きの時代であったことがわかります。
2将軍、鎌倉公方、関東管領などの代が変わる度に争乱が起きています。
<争乱の中での遊行寺時衆の活躍>
3
遊行寺と一遍像
この争乱の続いた時代、遊行寺を中心とする時衆の役割には目覚ましいものがありました。
1325年呑海上人によって遊行寺が立てられてから、南北朝期には、京都と鎌倉の二大都市を拠点として、時宗が貴族・武士の間に深く浸透することになり、京都は、七条道場・四条道場、関東は、藤沢の遊行寺・相模原の無量光寺がメッカの役割をになっていました。
戦乱の中、時衆は、僧衣を翻して奔走する陣僧として活動していました。陣僧の役目は、戦場に出陣する武士に随行し、戦死を遂げようとする武士に、敵味方関係なく「最後の十念を勧める」ことでした。(十念:南無阿弥陀仏の名号を10回唱えること)
争乱の主戦力は、敵味方に分かれて戦わざるを得なかった在地の群小の領主(国人)層でした
 
争乱の中での遊行寺時衆の活躍について、「藤沢と遊行寺」(藤沢市のブックレット2)には次のように書かれています。 
「この動乱の最中、敵味方の差別なく戦没者の骨を拾い、その供養をし、さらに戦乱を避けて藤沢に逃げ込んで来る戦争犠牲の人々を優しく救済した布教・殉教の徒が、藤沢に多くいたことは注目されることです。」
博愛思想をあらわすこの碑は、大正15年に国の史跡に指定されています。
4俣野大権現:遊行寺の檀越(施主)となった俣野五郎景平を祀る。
遊行寺は、第四代呑海上人の時、呑海が俣野の庄の地頭俣野五郎景平の弟であったことから、景平の後援を得て藤沢に創建されました。地元の在地での争乱に敵味方なく弔うことが行われたのも、地元ゆかりの遊行寺の時衆ならでの活動であったかもしれません。
(本記事の作成にあたっては、「藤沢―わがまちのあゆみー」(藤沢市文書館)、「藤沢と遊行寺」(藤沢市のブックレット2)、「室町人の精神」(桜井英治著、講談社)等を参照しました。)
参考:関連記事「戦国・江戸時代の遊行上人」は→こちらをお読みください。

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