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趣 味・歴史

歴史探訪9
藤沢の早雲禅寺「天嶽院」を訪ねる
ー戦国時代の藤沢ー

2021年2月18日  (itazu)
早雲禅寺天嶽院は、藤沢渡内の村岡城址に隣接する台地の広大な敷地にあります。北条早雲菩提の古刹として知られています。
                               天嶽院山門(左)
                               中雀門(右)(この奥に法堂がある。)
玉縄城群の一角に、早雲が開基した禅寺を玉縄城主綱成が、早雲の菩提寺として「天嶽院」を創建

1495年北条早雲によって伽藍の一寺が創建され、真言密教「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし虚堂玄白禅師を迎えて開創しましたが、1576年火災に遭い、玉縄城主北条綱成・氏繁父子が、早雲菩提のための天嶽院として創建しました。「天嶽」は早雲の道号です。(「天嶽院しおり」及び「天嶽院ホームページ」による)
早雲の菩提寺は、1521年に小田原城3代城主氏綱が箱根湯本に創建した早雲寺が有名です。(早雲はじめ後北条氏代々の墓所となっています。)
一方、藤沢の天嶽院は、早雲が1512年頃に築城した玉縄城群内にあります。(下図参照)
5玉縄城群(本丸と砦群)と天嶽院の地図
玉縄城群は、江戸・北相模方面からの侵入と鎌倉、三浦を支配するために、東は大船から、西は藤沢の遊行寺近くまで広大な台地に本丸と4つの砦③④⑤⑥がありましたが、そのうちの藤沢の高谷砦(村岡城址)に隣接する一角に天嶽院はあります。
(田谷藤沢線312号沿い)。
なお、玉縄代々の城主の墓所は、同じく綱成が開基した龍宝寺にあります。


綱成は、北条氏の関東一帯支配に貢献した武将

天嶽院を創建した玉縄城主 北条綱成は、今川氏の家臣で早雲の血縁ではありませんが、剛勇の士として有名で、小田原2代目城主氏綱の時、氏綱の娘を妻として北条一門となった人です。玉縄城主の後見役として補佐してきましたが、氏綱の信厚く、3代目の玉縄城主となり、さらに関東制圧の砦であった武蔵の河越城主も兼務し、小田原3代目城主氏康の片腕として数々の戦果を上げ、関東一帯を支配に貢献しました。
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後北条氏歴代城主(小田原城と玉縄城)
後北条氏は、初代早雲が小田原を攻略してから約一世紀にわたり、相模、さらに関東を制圧してきました。天嶽院を創建した玉縄城主綱成は、北条氏が小田原城主氏綱(2代)・氏康(3代)とともに関東制圧を成し遂げた絶頂期にあった城主です(上表の黄塗りの時代)。

後北条衰退後は、徳川家から支援・保護を受けます

その後、後北条氏は、秀吉の小田原攻めに屈し、衰退し、やがて徳川の支配下に入ります。
藤沢は、玉縄城主綱成の時代、玉城城下で門前町から宿場町へと転換してゆきましたが、徳川治世になってから、藤沢は、徳川の直轄領として江戸時代の宿場町として栄えてゆきます。徳川政権下においても玉縄城は重要視され、家康側近の本多正信の居城となり、その後は1703年転封で廃城になるまで、徳川一門の松平氏の居城となっていました。

天嶽院も、家康から朱印地を賜るなど徳川家から支援・保護を受けています。 江戸中期の建物で火災を免れた天嶽院山門は水戸光圀の建立といわれています。

(記事作成にあたっては、「藤沢―わが町の歩み―」(藤沢文書館)、北条早雲(泉秀樹著、Temjin)など参照しました。)

梵鐘は、1663年の銘を持つ古いもの。

水戸光圀公建立の天嶽院山門、 江戸中期の建物で火災を免れた。

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