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趣 味・歴史

歴史探訪⑪
北条泰時が開基した粟船山 常楽寺

2021年4月23日  (itazu)
大船の粟船山にある北条泰時が開基した常楽寺を訪ねます。


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粟船山:常楽寺 アクセス地図
粟船は大船の地名の由来

粟船山は、大船駅から徒歩15分ほどのところにある小高い丘です。
大船の地名はこの粟船に由来するといわれています。(鎌倉市ホームページ)
大船は、古くは柏尾川沿いに船が往来し、粟を積んだ船が着岸していたため粟船の名がつき、「あわふね」→「おおふな」と呼ばれるようになったといわれています。

常楽寺入口:山門が見える
常楽寺は北条泰時が開基

常楽寺は 第三代執権北条泰時が、1237年妻の母の追善供養のためお堂を立てたのが始まりで、1242年亡くなった泰時自身もここに葬られています。泰時の法名が常楽院殿観阿であることから、寺の名が常楽寺となっています。
 

山門にある「粟船山』の額
承久の乱は武士の時代の到来を宣言する歴史的出来事

北条泰時は、承久の乱の時の鎌倉幕府の総大将です。承久の乱(1221年)は、第3代将軍源実朝の死後、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討伐を図って敗れ、この乱を機に、貴族の時代が終わり、武士の時代が到来したことを宣言する歴史的出来事でした。
それまでの朝廷と幕府よる国の二重支配から鎌倉幕府一極に集中させ、関東だけでなく西日本を含む全国政権としての幕府の体制が整えられます。

山門(市指定有形文化財)
泰時は、承久の乱後の政治・法制の諸問題に対処するため1232年「御成敗式目」を制定します。
これまで法典の制定は、律令など天皇の権威と権力の下で行われてきましたから、武家による最初の成文法でした。
武士の道理を基準にした常識的な正義を定めたものでした。

鎌倉執権政治の撫民政策

泰時の御成敗式目の制定以来、鎌倉執権政治に撫民政策(民を大事にする)が取られるようになります。
「戦う人」として殺戮を繰り返してきた武士が「治める人」、統治者として「民を大事にする」という意識が出てきます。

仏殿

底辺の民衆を救おうとした法然の浄土宗をはじめ禅律宗など鎌倉新仏教による影響が大きいのですが、泰時(3代執権)、重時(副執権)、時頼(5代)、時宗(8代)などそれぞれ寺を開基し、撫民政策を打ち出します。


泰時から時宗までの約60年間は、執権政治の黄金時代といわれますが、下表は、そうした撫民政策のバックボーンとして宗教との関係を示したものです。
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執権政治の撫民政策と宗教との関係

北条泰時の墓
泰時は、華厳経の明恵に帰依

常楽寺を開基した泰時は、華厳経の明恵に帰依しており、「御成敗式目」にもその影響が色濃く残されているといわれます。(時頼の時代に常楽寺は禅寺になりますが、創建当初は密教系でした。)
第8代の時宗の死後、元寇後の処理の混乱や北条得宗と御家人の内乱が繰り返され、次第に鎌倉幕府は滅亡に向かいますが、生産力、技術、商業などの進展により、民衆の力が向上し、武士の支配に撫民政策が不可欠になってきたことを意味します。
泰時の御成敗式目は、室町時代まで武家の根本法となっていました。


(参考資料)執筆にあたり「鎌倉の寺社を122を歩く」PHP新書(山折哲男)、「日本中世史の核心」朝日文庫(本郷和人)、「日本史のツボ」文春新書(本郷和人)、「承久の乱800年前の真実」文芸社(斉藤紀夫)などを参照しました。
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<補足1>
*この寺には、国指定重要文化財にに指定されている鎌倉最古の梵鐘がありますが、現在は鎌倉国宝館に預けられています。
<補足2>
*常楽寺には、源 (木曽) 義高の墓石があります。
 義高は、源 (木曽) 義仲の長男で、義仲が平家に対して挙兵した際に、人質として鎌倉に送られてきました。頼朝の娘の大姫が許嫁となりますが、やがて、義仲と頼朝の関係が悪化し、義仲が討たれると、義高も討たれてしまいます。

記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。   markenopo 2021年04月23日