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趣 味・歴史

泉小次郎親衡(ちかひら)館跡 長福寺を訪ねる
(歴史探訪⑫)

2021年5月24日  (itazu)
鎌倉時代、北条義時を倒そうと乱を企てた泉小次郎親衡(ちかひら)館跡 長福寺(横浜市泉区)を訪ねました。
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相鉄線いずみ中央駅と長福寺近辺マップ


鎌倉時代、泉小次郎親衡(ちかひら)は、北条義時を倒そうと乱を企てる


相鉄線いずみ中央駅東口に、鎌倉円覚寺末寺の長福寺と須賀神社があります。
長福寺は、鎌倉時代、北条義時を倒そうと乱を企てた泉小次郎親衡(ちかひら)が、道場として創建し、守護神として祀ったのが須賀神社といわれます。
この裏手の和泉中央公園には、「泉小次郎馬洗いの池」があります。
(泉区ホームページ:泉区小史)

親衡の乱」は、和田合戦の発端となる



長福寺の縁起によれば、
泉小次郎は信濃の国(上田市小泉)の信濃源氏の嫡流で、
鎌倉時代1213年、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁して、北条氏打倒の意を同じくする越後、伊勢、下総の同志を330余名を集め北条義時に対抗しようとしますが、計画は事前に発覚し、泉親衡は逃亡します。
しかし、この泉親衡の乱に、和田義盛の子義直、義重と

長福寺(上)と須賀神社(下)
甥の胤長がかかわっていたことから、その処置を巡って北条義時と和田義盛が対立し、和田義盛が、北条体制に不満を持つ相模武士団とともに挙兵することとなりました。結果は、和田氏は敗北します。

北条氏は次々とライバルの有力御家人を排除 

鎌倉幕府は、頼朝の死後、執権の初代北条時政、2代義時が、次々とライバルの御家人を排除してゆく戦いを繰り広げてゆきます。

下表は、北条氏が、頼朝時代からのライバルの有力御家人、梶原景時、比企能員(よしかず)、畠山重忠、和田義盛、三浦泰村を討伐してゆく内乱の歴史の一覧表です。

 専制的な北条支配に対抗し、源氏の嫡流や相模武士団が、常に反乱の機会を窺っていました。
泉親衡の乱もその一つで、北条氏の最大のライバルであった三浦氏及びその一族である和田氏との熾烈な暗闘の発端となる事件となり、内乱は5代時頼の代まで繰り広げられることになりました。
(表)北条氏執権によるライバル御家人などの討伐5
山川「日本史小辞典」など参照)
和泉川流域には、信濃源氏の思い入れの心意現象が伝承

昭和61年泉区誕生とともに開園した泉中央公園に、「泉小次郎馬洗いの池」があります。池は一年中湧水が涸れたことがなく、昔から干ばつが続くと土地の人が集まり池の水を汲み干し雨乞いの願をかけてきたといわれます。この池の底から南北朝時代と思われる板碑が出土し、また、長福寺一帯に城址といわれる土塁などが残されていて、長福寺は泉小次郎の館跡と言い伝えられています。

泉小次郎馬洗いの池

長福寺にある板碑

和泉川流域には、
今回紹介した泉小次郎の伝承
をはじめ
巴御前(木曽義仲の愛妾)の伝承
(巴御前は、頼朝の人質となり殺された義仲の息子、義高の母ともいわれ、また、源平盛衰記に、和田義盛が巴御前を妻にしたという話が残されているなど、木曾・信濃と鎌倉をつなぐ伝承が多い。)
義高の墓は、前回紹介した歴史探訪⑪「北条泰時が開基した粟船山常楽寺」
(https://www.enopo.jp/2017-08-26-14-18-45/mobile-hobiees/29240-2021-04-16-23-19-29.html)
にあります。
境川流域にある佐馬神社はいずれも源義朝が祭神ですが、和泉川沿いにある三社の佐馬神社は、信濃源氏の祖でもある源満仲が祭神となっている(歴史探訪⑤「境川流域のサバ神社」参照
(https://www.enopo.jp/2017-08-26-14-18-45/mobile-hobiees/28255-2020-11-04-07-22-27.html
など、泉小次郎にまつわる信濃源氏の思い入れの心意現象が伝承されてきているといわれています。
(泉区の小史-いずみいまむかしーによる)
 

記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。   markenopo 2021年5月21日