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趣 味・歴史

元使塚の常立寺を訪ねる(歴史探訪⑮)

2021年10月16日  (itazu)
今回は、先回訪ねた龍口寺に隣接する常立寺を訪ねます。(常立寺は、湘南モノレール江の島駅から徒歩1分)
前回訪ねた龍口寺の龍の口には、罪人の処刑場跡がありました。
鎌倉時代、元寇の時、文永の役の翌年、日本に元への服従を求める国書を携えた杜世忠ら元の国使ら5名が北条時宗によって龍の口で処刑されました(1275年)。
処刑された者たちを弔うため「誰姿森(たがすのもり)」と呼ばれる龍口寺の隣接地に埋葬され、供養塔が立てられ、ここに真言宗の利生寺と称した寺が創建されたのが、常立寺のもとといわれています。
その後、利生寺は1532年に日蓮宗へと改宗し常立寺(日蓮宗片瀬八ヶ寺の一つ)と改称し、1925年(大正15年)、時の住職により元使塚が建てられました。
2005年(平成17年)朝青龍や白鵬らモンゴル出身の幕内・十両力士らが元使塚を参拝し、モンゴルで青い布(青はモンゴルで英雄を意味する色)を五輪塔に巻き、元使を弔いました。
その後も毎年、藤沢で巡業の際にモンゴル出身力士による元使塚参拝が行われるようになり、五輪塔には常に青い布が巻かれるようになりました。  [Wikipediaによる]

<杜世忠ら元の国使の斬首>

元使塚には、五体の「五輪塔」があります。処刑された5人の墓標です。ここにある藤沢市の案内板によれば、「五輪塔」は、密教系の塔で、平安時代末期から供養塔や墓標として全国的に流行していたようです。
元寇の最初の文永の役は、台風で難を免れたものの、かなり元軍に傷めつけられていた当時の執権北条時宗は、元への服従を求める国書を携えた杜世忠ら元の国使ら5名を、問答無用とばかり悉く龍ノ口で斬首してしまいました。5人は、正使の杜世忠(蒙古人)、副使の何文著(唐人)、他ウイグル人2名と通訳(高麗人)でした。
死に臨んで元使の杜世忠と何文著は辞世の詩を残しています。
杜世忠は「栄達を果たして家族のもとに返る望みを果たせなかった無念さ」を詠んだ詩を、また、何文著は、禅の心得があり韻文による経文詩を残しています。
戦時下とはいえ外交使節を罪人並みに殺してしまった痛ましい処置でした。
当時は戦乱で多くの死者を弔うことが僧侶によって行われており、元使者の御霊を供養する塚が立てられたのだろうと思われます。
元寇の2度目の弘安の役は、日本軍の必死の防戦と暴風雨により難を逃れました。当時、元は、宋を滅ぼし中国全体を征服していました。宋から、僧侶などが日本へ逃亡し、をはじめ多くの文化が流入してきています。北条時頼は、宋の禅僧の蘭渓道隆を招き、建長寺を日本で最初の禅宗専門道場として開山し、時宗は、無学祖元を招き、元寇で死んだ人々を追善するために円覚寺を開山しました。北条時宗は、元寇2度目の弘安の役の前にやってきた使者も、上陸した博多で全員切り捨てています。
使者たちの運命は悲惨で、禅を重んじていた時宗の態度の冷厳さに、鎌倉時代のこととは言え、この塚を前に何か割り切れないものを感じます。

(参照資料:「日本の歴史8」蒙古襲来(黒田俊雄)中公新書、Wikipedia他)
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補足)なお、常立寺は,枝垂れ梅の名所でもあります。
 

記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。   markenopo 2021年10月19日