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趣 味・歴史

歴史探訪(23) 後鳥羽上皇鎮魂の新宮(今宮)神社(鎌倉)

2022年5月1日  (itazu)
鎌倉の鶴岡八幡宮の北側に奥まって小さな社殿、新宮(今宮)神宮がひっそり建っています。祭神は後鳥羽上皇、順徳天皇、土御門天皇です。承久の乱(1221年)における朝廷側の人物たちで、鎌倉幕府は勝利し後鳥羽院を隠岐へ、順徳帝を佐渡へ配流し、両帝はその地で亡くなりました。土御門帝は自ら希望し土佐へ配流されています。

新宮神社鳥居
承久の乱によって武士が朝廷を凌駕

承久の乱は、日本史において決定的な意味を持っています。上皇すら罪に問い、武士が朝廷をも凌駕する力を得たことなります。
北条義時・泰時は、後鳥羽上皇の影響力を排除するため、後継天皇として、後鳥羽上皇の兄の守貞親王の子孫(後堀川、四条天皇)や親幕府派だった土御門天皇の子(後嵯峨天皇)を即位させています。また、経済的利益も大きく、朝廷側についた武士の膨大な荘園を幕府が没収し、幕府方の武士に恩賞として分配したため、鎌倉幕府は、東国だけでなく全国政権へ踏み出しました。
(「北条氏の時代」本郷和人著参照)

新宮神社本殿
天変異変が多発

戦いには勝ったったものの、実質的な武家政権の支配を実現した北条にとって、敵対した朝廷の後鳥羽上皇の怨霊を恐れていました。実際、様々な怪異が生じたといわれます。
後鳥羽上皇が亡くなる1239年前後は、寒冷気候による大凶作(寛喜の飢饉1231年以降)が続き、1239年には、鎌倉で水害による損失、京都で天変(流星空を舞う)、1240年鎌倉などで異変続き、災害異変でほぼ毎年のように改元(凶事の縁起直しに元号を改める)が行われています。

新宮(今宮)神社建立の碑
後鳥羽上皇が、1239年は配流先の隠岐で亡くなると、承久の乱で京都に攻め上った有力御家人の三浦義村が1239年に亡くなり、翌1240年には大将の一人だった北条時房が死去し、もう一人の大将、三代執権・北条泰時は高熱に苦しみ、1242年に亡くなりました。

後鳥羽院の怨霊を鎮めるための神社

これらのことから幕府は後鳥羽帝の怨霊を恐れ御霊を鎮めるため1247年に当社を創建しました。
碑文(左記)には
「1239年に、鎌倉の街中の方々で喧嘩(けんか)や争いごとがあり、とくに5月25日には大騒動が起りました。この日には、隠岐(おき)の島に流されていた天皇の後鳥羽院(ごとばいん)が亡くなったので、これはその恨(うら)みが原因だろうということで、 1247年4月に後鳥羽院の霊(れい)と、さらに順徳院霊もあわせて祭りました。(概略)」と書かれています。
北条氏は無念のうちに亡くなった後鳥羽上皇の怨霊に悩まされ、御霊を鎮めようとした逸話が残るのがこの神社です。
(参照資料:「北条氏の時代」本郷和人著、鎌倉の寺社122を歩く(PHP新書)、Web「鎌倉のとっておき、鎌倉と怨霊」、防災情報新聞:日本の災害防災年表等)
 
 

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