善行雑学大学「絹で解けた邪馬台国の謎」
古代絹の科学的研究をした京都工芸繊維大学名誉教授の布目順郎氏は、全国の遺跡を調査した結果、弥生時代に限ると絹は北部九州からしか出土していないことを明らかにしました。
福岡市早良区の有田遺跡から日本最古の絹(弥生時代前期末、紀元前100~150年)が出土しています。
『魏志倭人伝』には、邪馬台国は絹の豊富な国だったことが詳しく述べられています。従って、絹の国である邪馬台国は、絹の出ている北部九州にあったと考えるのが理に適っています。
繭の形が類似していることや、吉野ケ里遺跡の絹のDNAが江南の絹のものと一致していることから、絹は中国の江南地域から直接、北部九州に伝来しました。
カギを握るのは伊都国です。『魏志倭人伝』に、「世々王有り」と特筆大書されていて、伊都国は倭国の中心的存在であるとされています。倭国三十国の中で、邪馬台国を除いては、王がいたと書かれた国は伊都国だけです。
『魏志倭人伝』には、「一大卒(女王の親衛隊のようなもの)」が伊都国に常駐していた、女王宛ての魏の使者が往来時に伊都国に常駐していた、伊都国の港で所持品検査や女王宛ての文書などを転送していた、といった伊都国の近くに邪馬台国の女王がいたと解される記述があります。
従って、邪馬台国は伊都国の近くに存在したと考えられるのではないか。萱島さんの私見によれば、糸島市の平原遺跡(ひらばるいせき)が卑弥呼の墓ではないかとのことです。糸島市は福岡市の隣にあります。
※萱島さんの著書(『卑弥呼は福岡市付近にいたー邪馬台国は伊都国の近くにあった』)のなかに、「伊都国は現在の糸島市(旧前原市・糸島郡)と考えられている。」と書かれています(95ページ)。
北部九州の遺跡からは、倭国王の存在を推測させる遺物が出土されています。例えば、糸島市三雲遺跡からは、金メッキされた金銅四葉座飾金具(こんどうしようかざりかなぐ)が国内の弥生時代の墓で唯一出土しています。これは中国の皇帝が蛮王の死に際して下賜した埋葬用具の一つです。三雲遺跡に埋葬された人物が中国から「王」と認識されていたという証しと言えるのではないかと考えられます。
志賀島で発見された金印は倭国王に下賜されたものと考えられます。
日本の国の成り立ちは北部九州で始まりました。弥生時代を特徴付ける水田耕作、絹、鉄は北部九州が最古で、倭国も邪馬台国も北部九州に所在したといえるのではないか。
三雲遺跡や薬師ノ上遺跡から硯が発見され、弥生時代に文字文化が倭人社会にも普及していたことが推測されます。
倭国の範囲は、北部九州と壱岐・対馬、さらには朝鮮半島の一部と考えられます。
日本の国の成り立ちを神話形式で表したのが記紀神話ですが、重要な記紀神話には必ず絹の記述があることを発見したのが萱島さんです。
記紀神話の舞台は北部九州であり、宗像が出てくることから神話の中心は福岡と考えられます。
天孫降臨の地は、宮崎県の高千穂というのが一般的ですが、糸島市と福岡市の間にある「日向(ひなた)峠」との有力な説があります。
イザナキノミコトの禊祓いの地も「日向峠」付近で、「筑紫の日向の小戸・・・」との文言が祝詞の中に現存しています。
禊で生まれた阿曇(あずみ)が日本各地に進出しました。最も有名なのが、長野県安曇野です。
【講演を聞いて】
福岡市出身の萱島さんは、銀行員生活を終えた2004年から古代史研究を始めました。古代史に関する著作もあり、弥生時代に文字文化が倭人社会に広く普及していたのではないかという話や、糸島市の平原遺跡(ひらばるいせき)が卑弥呼の墓ではないかといった話も含めて、大変興味深い話を聞くことができました。
質疑応答も活発で、日本古代史は私たちのロマンをかきたてる何かがあるなと実感した講演でした。
萱島さんは居住地の戸塚で「古代史の会」を昨年立ち上げ、2カ月毎に戸塚図書館2Fの戸塚地区センターで例会を開催しています。3月22日の例会には55名が参加しました。また、4月からはふらっとステーションとつかで「古代史の会分会」も発足の予定です。古代史に関心のある方は参加を検討してみてはいかがでしょうか。
●「古代史の会」次回開催予定:2018年5月18日(金)10:00~12:00
戸塚図書館2F 戸塚地区センター会議室
●「古代史の会分会」開催予定:2018年4月1日(日) 10:00~12:00(※2カ月に1回開催予定)
ふらっとステーションとつか
●連絡先:貝島 資邦 氏(萱島 伊都男は貝島氏のペンネームです)
電話 090-4738-1365