当麻無量光寺を訪ねる時宗の遊行寺は、第4代呑海上人が1325年、藤沢に清浄光院として開山したと言われる。
当麻(たいま)無量光寺を訪ねる
2018年5月25日 (Itazu)
無量光寺の一遍像
遊行寺の一遍像
時宗の遊行寺は、第4代呑海上人が1325年、藤沢に清浄光院として開山したと言われる。だが、1289年宗祖一遍上人没後、2代目真教上人、3代目智得上人までは相模原市にある当麻(たいま)無量光寺が本山となっていた。 今回、無量光寺を訪ね、その歴史を辿ってみた。
無量光寺の入口
説明書きの立札
一遍上人は、捨聖といわれるように、没後,教団を形成して永続させる意図はなかった。しかし、一遍の有力な弟子であった真教は、信者も強い要望もあって教団を確立し、13年間関東を中心に遊行をしたあと、相模国当麻に無量光寺を創立した。1304年、遊行上人の地位を3代目智得に譲ったが、1319年に真教が、その1年後、智得も相次いで亡くなってしまった。
無量光寺の山門と一遍彫像
真教や智得から西国の遊行を任されひたすら遊行を続けていた真教の弟子、呑海は、智得の亡き後、遊行先から当麻に入ろうとするが、執権北条氏の支持を得た智得の弟子(真光)がすでに相続しており、果たせなかった。
そこで呑海は、藤沢に清浄光院を建立し、以降、時宗は、遊行派と当麻派に分裂した。当麻派は、北条氏の保護を受け隆盛していたが、北条氏の衰退とともに、遊行派が主流となり、徳川時代以降、当麻派は、遊行派を頂点とする時宗教団に組み込まれ一地方分派となった。
そこで呑海は、藤沢に清浄光院を建立し、以降、時宗は、遊行派と当麻派に分裂した。当麻派は、北条氏の保護を受け隆盛していたが、北条氏の衰退とともに、遊行派が主流となり、徳川時代以降、当麻派は、遊行派を頂点とする時宗教団に組み込まれ一地方分派となった。
一遍の伝承遺跡の説明立札
一遍の木彫像が収められている本堂
小田急線海老名から相模線で北4駅目に原当麻(はらたいま)駅を下車し10分ほどのところに無量光寺はある。一遍上人が遊行の際、関東では、ここ当麻山で「金光院」という草庵を結んで修行されたといわれ、この一遍ゆかりの地に、2代目真教が開山したといわれる。一遍の伝承遺跡が残っており、藤沢の遊行寺より一遍には関係が深い。
境内は、大樹が多く静寂感が漂う(左図)。
東日本では珍しい「なぎの木」がある(右図)。針葉樹でありながら広葉樹のような幅の広い葉を持つユニークな木。熊野詣が盛んであった中世、1枚の木の葉に阿弥陀如来の化身が宿るといわれ参詣者に渡された神木である。この「なぎの木」の近くに、一遍が修行したとされる草庵の跡がある。
東日本では珍しい「なぎの木」がある(右図)。針葉樹でありながら広葉樹のような幅の広い葉を持つユニークな木。熊野詣が盛んであった中世、1枚の木の葉に阿弥陀如来の化身が宿るといわれ参詣者に渡された神木である。この「なぎの木」の近くに、一遍が修行したとされる草庵の跡がある。
◆当麻山無量光寺のURL⇒http://www.muryoukouji.or.jp/
◆参照文献:一遍辞典(今井雅晴編)東京堂書店
2018年5月24日