境川沿いの鎌倉街道(上道)「いざ鎌倉へ」の鎌倉街道は、藤沢市及び近隣においても、村岡から境川の横浜市側の俣野、飯田へと街道跡が残されています。
境川沿いの鎌倉街道(上道)を歩く
2020年5月25日 (itazu)
「いざ鎌倉へ」の鎌倉街道は、藤沢市及び近隣においても、村岡地区から境川の横浜市側の俣野地区、飯田地区へと街道跡が残されています。上道は、新田義貞が鎌倉攻めをした道として知られており、今回、村岡から下飯田までの街道跡を歩いてみました。■ 上道は、新田義貞が鎌倉攻めをした道
鎌倉時代、幕府の御家人らが鎌倉に向かう道として発展した鎌倉街道には、関東地方では、上道、中道、下道があります。
いずれも鶴岡八幡宮を起点に、化粧坂から(上道)、巨福呂坂(中道)、朝比奈(下道)、それぞれ三道が分かれます。
鎌倉時代、幕府の御家人らが鎌倉に向かう道として発展した鎌倉街道には、関東地方では、上道、中道、下道があります。
いずれも鶴岡八幡宮を起点に、化粧坂から(上道)、巨福呂坂(中道)、朝比奈(下道)、それぞれ三道が分かれます。
◆上道は、藤沢、町田、高崎→旧中山道
◆中道は、戸塚、新宿、板橋、宇都宮→奥州街道
◆下道は、保土ヶ谷、高輪、浅草、松戸→旧水戸街道
■ 旧鎌倉街道 村岡地区から飯田地区までの上道を歩く
藤沢市や境川を通るのは上道(かみつみち)です。藤沢市は、鎌倉から村岡地区→横浜市俣野地区へ入ると境川沿いに、飯田地区、瀬谷、町田へと北上します。今回、村岡から湘南台近くの下飯田までの街道跡を歩いてみました。
(上記右MAP参照、説明文の〇番号はMAPに対応しています。)
(上記右MAP参照、説明文の〇番号はMAPに対応しています。)
■ 村岡地区は歴史の町②③
鎌倉から藤沢へは小塚の柏尾川の町屋橋①を渡り武田薬品を迂回し村岡地区を北上します。
村岡城址跡②→日枝神社→慈眼寺→柄沢神社③へと続きます。
村岡城址は、坂東八平氏の祖、良文(村岡五郎)の居住跡であり、公園からはるか源氏山も見えます。村岡地区は鎌倉と深い関係のある地だけあって、地元の歴史案内も充実していて、各案内スポットにある「村岡ふるさとマップ」に沿ってツアーが楽しめます。
柄沢神社は、頼朝が参拝し、鎌倉武士の間で信仰されたとされる古い神社です。
鎌倉から藤沢へは小塚の柏尾川の町屋橋①を渡り武田薬品を迂回し村岡地区を北上します。
村岡城址跡②→日枝神社→慈眼寺→柄沢神社③へと続きます。
村岡城址は、坂東八平氏の祖、良文(村岡五郎)の居住跡であり、公園からはるか源氏山も見えます。村岡地区は鎌倉と深い関係のある地だけあって、地元の歴史案内も充実していて、各案内スポットにある「村岡ふるさとマップ」に沿ってツアーが楽しめます。
柄沢神社は、頼朝が参拝し、鎌倉武士の間で信仰されたとされる古い神社です。
村岡城址跡(写真左) 柄沢神社(写真右)
■八坂神社の鳥居(俣野地区)④
柄沢神社③から横浜市の影取地区→俣野地区へ至る道が、藤沢バイパスをまたぐため道が定かではありませんが、鉄砲宿から俣野別邸庭園→東俣野中央公園の方へ境川沿いの旧道を歩きますと、八坂神社④の鳥居に出会います。この鳥居に、「鎌倉街道西の道」という説明書があり、
「新田軍が鎌倉攻略に進撃したのはこの道と伝えられ歴史ある古道である。(中略)頼朝が鎌倉入りしてから百五十三年目のことである。」と書かれています。
「新田軍が鎌倉攻略に進撃したのはこの道と伝えられ歴史ある古道である。(中略)頼朝が鎌倉入りしてから百五十三年目のことである。」と書かれています。
八坂神社の鳥居
八坂神社
鳥居にある説明書
この八坂神社の隣に曹洞宗の龍長院④という寺があり、そこの入口に「旧鎌倉街道の道筋」と書かれた説明板があり
「龍長院を南に行くと東俣野鎮守八坂神社があり、その鳥居を左に折れ堂坂を上り「旧東海道」を横切って影取町に入り、大船方面に通じている。」と書かれています。
影取(横浜市)と柄沢(藤沢市)は市境にあり、先に紹介した柄沢神社へ続くことを意味しています。
「龍長院を南に行くと東俣野鎮守八坂神社があり、その鳥居を左に折れ堂坂を上り「旧東海道」を横切って影取町に入り、大船方面に通じている。」と書かれています。
影取(横浜市)と柄沢(藤沢市)は市境にあり、先に紹介した柄沢神社へ続くことを意味しています。
龍長院の地蔵堂と説明板
■俣野地区は俣野五郎景久ゆかりの地⑤
この龍長院の地蔵堂には、俣野景久の守護仏といわれている石像が安置されています。
俣野景久は、石橋山の合戦の時の平家方の総大将・大庭景親の弟・俣野五郎景久のことで、景久ゆかりの俣野観音堂⑤が、少し境川を遡ったところにあります。
俣野景久は、石橋山の合戦の時の平家方の総大将・大庭景親の弟・俣野五郎景久のことで、景久ゆかりの俣野観音堂⑤が、少し境川を遡ったところにあります。
俣野観音堂
説明板
影久は、この説明書きによれば、石橋山の合戦で、兄大庭景親とともに頼朝を敗走させたが、その後復活した頼朝と木曽義仲に敗れ、守護仏だった観音像をこの地に納めたとあります。
■飯田地区は飯田五郎義家ゆかりの地⑥~⑩
さらに境川を遡ると、県立遊水地近くの下飯田に、東泉寺と琴平神社⑥があり、そこの庚申塔、馬頭観音に「この方、かまくらみち道」と記されています。この近くに、飯田五郎義家の館跡だった「富士塚城址」⑦の石碑があり、少し進んだところに佐馬神社(下飯田神社)⑧があります。
東泉寺
琴平神社
富士塚城址 佐馬神社(下飯田神社)
このあたりから少し上流の飯田神社⑩に至る一帯は、飯田義家の所領地だったところで、鎌倉時代の歴史の香りが街道に残されています。飯田五郎義家は、石橋山の合戦の時、大庭景久や俣野五郎とともに頼朝討ちに加わったが、頼朝が敗走する際、頼朝を見逃してその後頼朝の重臣となった有名な梶原景久とともに、逃走を手助けし、そのことにより、飯田地区一帯を安堵されています。
■佐馬(サバ)神社は、頼朝の父,義朝が祭神⑧⑨
佐馬(サバ)神社(下飯田神社)⑧は、頼朝の父,義朝が祭神で、義朝の官職が「左馬頭(さまのかみ)」であったからといわれています。サバ神社は、境川、引地川、和泉川流域に12社点在するといわれ、このサバ神社の藤沢側の高倉にも鯖明神社(七ツ木神社)⑨があり、サバ神社の由来が説明書にありました。
鯖明神社(七ツ木神社)
説明板
境川沿いのこの一帯は、歴史を感じさせる遺跡と自然が残されていて、鎌倉街道を偲ばせる雰囲気があり、川沿いの散歩とともに旧街道の歴史散歩を楽しむことができます。
(本記事内容については「鎌倉街道夢紀行:上道コース」(テレビ埼玉編)を参照しました。)
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 2020年5月28日