横浜人 ぶらり「平塚宿」を歩く東海道五十三次の7番目の宿場町の平塚宿を街道の史跡を見ながらぶらり歩いてみました。
横浜人 ぶらり「平塚宿」を歩く
2020年07月20日 (eguchi)
東海道五十三次の7番目の宿場町の平塚宿を街道の史跡を見ながらぶらり歩いてみました。宿場の大きさは東西に約1.5kmあり、当時は旅籠屋だけでも75軒を抱えた宿場町です。
平塚は小田原北条氏が城郭を築いたところから発達した町で、東海道五十三次の7番目の宿場町で大きさは東側の江戸見附から 西側の京方見附まで約1.5kmあり、平塚宿には、本陣、脇本陣、問屋場、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して200軒を超える町並みが続いたと言われています。
● 平塚宿を物語る史跡の数々
江戸見附 東西に真っ直ぐ延びた東海道沿いの、江戸側の出入り口にあたる「江戸見附」
脇本陣跡 江戸時代の宿場には、幕府関係者や大名を泊める宿として「本陣」があり、この本陣の補助的な役目を果たしたのが、「脇本陣」と呼ばれる宿舎
高札場跡 幕府の法度や掟が書かれた札を掲げた場所。
本陣旧跡 参勤交代の大名、公家、公用の幕府役人などが宿泊したのが「本陣」と呼ばれる大旅館です
平塚の塚・・・「平塚」地名の由来 桓武天皇の孫、高見王の子孫 平政子がここで没したため、塚を築いて弔った
京方見附の跡 平塚宿の西側の出入り口 京方見附は、大磯町境の古花水橋の所に置かれていた。
●平成の一里塚
平成の一里塚 (平塚と平成の違いに注意してお読みください)
平塚宿の西側を過ぎた所(京方見附の跡を越した所)に「平成の一里塚」があります。(実際の住所は大磯町)
平成になり当時の姿を現代に甦がえらそうとこの地、金目川(花水川)と国道1号線の交差点脇に「平成の一里塚」として作られました。まさに 広重の東海道五十三次・平塚宿に描かれた高麗山や花水川が眺められる場所です。
今回の「ぶらり平塚宿を歩く」はここで終わりにしましたが、座って一休みしながら暫し眺めてみました。確かに遠くには高麗山が見え、すぐ近くに花水川が見え、目の前は国道1号線で、昔は街道で籠や馬、旅人が頻繁に往来していたであろう情景が目に浮かんで来て、当時の街道の様子に思いをはせる一時でした。
平塚宿の西側を過ぎた所(京方見附の跡を越した所)に「平成の一里塚」があります。(実際の住所は大磯町)
平成になり当時の姿を現代に甦がえらそうとこの地、金目川(花水川)と国道1号線の交差点脇に「平成の一里塚」として作られました。まさに 広重の東海道五十三次・平塚宿に描かれた高麗山や花水川が眺められる場所です。
今回の「ぶらり平塚宿を歩く」はここで終わりにしましたが、座って一休みしながら暫し眺めてみました。確かに遠くには高麗山が見え、すぐ近くに花水川が見え、目の前は国道1号線で、昔は街道で籠や馬、旅人が頻繁に往来していたであろう情景が目に浮かんで来て、当時の街道の様子に思いをはせる一時でした。
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 2020年xx月xx日