村岡城址と御霊神社 歴史探訪(2)
2020年8月27日 (itazu)
前回「歴史探訪(1)」で、坂東八平氏の祖、平良文・忠光・忠通3代の墓所のある二伝寺を訪ね、10~11世紀関東一帯に平氏の武士団の基盤が作られたことを紹介しました。平良文関連の史跡は、この二伝寺のほか、村岡城址公園、日枝神社、御霊神社があります。
今回、村岡城址、日枝神社、宮前御霊神社を訪ねます。
今回、村岡城址、日枝神社、宮前御霊神社を訪ねます。
二伝寺:平良文の墓所の入口にある碑
平良文の墓所の碑文には
「相模の国村岡郷渡内村に館を構え(今の村岡城址公園周辺)比叡山麓日吉大社の祭神を城砦の守護神に勧請し(現在の日枝神社)、939年鎮守府将軍陸奥守に任じられ、翌年、平将門征討と国家安穏を祈願し、今日の山城国の御霊宮の祭神早良親王(崇道天皇)を同郷宮前村に勧請した(現在の御霊神社)」とあります。
「相模の国村岡郷渡内村に館を構え(今の村岡城址公園周辺)比叡山麓日吉大社の祭神を城砦の守護神に勧請し(現在の日枝神社)、939年鎮守府将軍陸奥守に任じられ、翌年、平将門征討と国家安穏を祈願し、今日の山城国の御霊宮の祭神早良親王(崇道天皇)を同郷宮前村に勧請した(現在の御霊神社)」とあります。
村岡城址公園の城址碑
良文が勧請した日枝神社
★<村岡城趾>
村岡城址公園には城址碑が建っており、秩父平氏渋谷の末裔といわれる日露戦争の英雄東郷平八郎元帥が、城主良文の軍功をたたえた碑文があります。「村岡城の地位は古来武相交通の要衡に在り、往昔従五位下村岡五郎平良文公及び其の後裔五代の居城なり、蓋し其の築城は今を距ること約一千年前に属す。良文公は関東八平氏の始祖にして天慶二年鎮守府将軍陸奥守に任せられ、多くの荘園を有し威を関東に振ひたり。天慶の乱起るに及び藤原秀衡 平貞盛と共に将門を征討し、大に軍功を立てたり。(以下略)」
村岡城址公園には城址碑が建っており、秩父平氏渋谷の末裔といわれる日露戦争の英雄東郷平八郎元帥が、城主良文の軍功をたたえた碑文があります。「村岡城の地位は古来武相交通の要衡に在り、往昔従五位下村岡五郎平良文公及び其の後裔五代の居城なり、蓋し其の築城は今を距ること約一千年前に属す。良文公は関東八平氏の始祖にして天慶二年鎮守府将軍陸奥守に任せられ、多くの荘園を有し威を関東に振ひたり。天慶の乱起るに及び藤原秀衡 平貞盛と共に将門を征討し、大に軍功を立てたり。(以下略)」
<鎌倉権五郎景政:大庭御厨を開発し鎌倉党武士団の根拠を固める>
宮前御霊神社
★<御霊神社>
平良文(村岡五郎)が勧請した御霊神社には、御祭神として崇道(すどう)天皇(桓武天皇の弟)のみでしたが、12世紀初め鎌倉権五郎景政(五代城主)が祀られるようになりました。
さらに、北条時頼の命により、桓武平氏のルーツ、葛原(かずらわら)親王、高見王、高望王の3柱が加えられています。(下記説明碑による)
平良文(村岡五郎)が勧請した御霊神社には、御祭神として崇道(すどう)天皇(桓武天皇の弟)のみでしたが、12世紀初め鎌倉権五郎景政(五代城主)が祀られるようになりました。
さらに、北条時頼の命により、桓武平氏のルーツ、葛原(かずらわら)親王、高見王、高望王の3柱が加えられています。(下記説明碑による)
御霊神社の由来、説明碑
鎌倉権五郎景政は、祖、良文から5代目に当たり、12世紀始め、①茅ヶ崎から藤沢にかけて広大な荘園、大庭御厨(伊勢神宮に寄進)を開発し、(源頼義*・義家*親子が関東に勢力を伸ばしてきた頃)②鎌倉氏を名乗り、後の鎌倉武士、大庭氏や梶原氏など鎌倉党という武士団の基盤を確立しました。宮前をはじめ川名、鎌倉などの御霊神社にも景政が祀られています。(*源頼義(988-1075)は、前九年合戦の平定後、鎌倉に石清水八幡宮(鶴岡八幡宮の起源)を勧請し、平直方の女婿となり、鎌倉の屋敷を送られた。*源義家(1039-1106)は、前九年合戦には父頼義とともに陸奥の安部を討ち、陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年合戦を平定。親子で、東国に源氏勢力の根拠を固めた。(「山川日本史小辞典」による))
★<旗立山>
御霊神社の境内に<旗立山の由来>の案内があります。
鎌倉権五郎景正が、源義家の後三年の役(1086)の時に初陣として参戦したことが伝えられています。 「この碑の左上山頂に平坦地(平台山)が1200坪程あります。前九年の役(1059)の出陣にあたり、源頼義がこの山にて白幡を立て軍勢を集めたことからこの地は旗立山と呼ばれています。また、その子源義家も後三年の役(1086)の時に同じように白幡を立てたとされています。(其のとき村岡城主鎌倉権五郎景正が初陣としてこの戦いに参戦しました。)」
御霊神社の境内に<旗立山の由来>の案内があります。
鎌倉権五郎景正が、源義家の後三年の役(1086)の時に初陣として参戦したことが伝えられています。 「この碑の左上山頂に平坦地(平台山)が1200坪程あります。前九年の役(1059)の出陣にあたり、源頼義がこの山にて白幡を立て軍勢を集めたことからこの地は旗立山と呼ばれています。また、その子源義家も後三年の役(1086)の時に同じように白幡を立てたとされています。(其のとき村岡城主鎌倉権五郎景正が初陣としてこの戦いに参戦しました。)」
旗立山の由来の案内
裏参道にある石柱
神社の裏参道には鎌倉古道(上の道)の石柱があり、この近くに(現在、神戸製鋼の敷地内)鎌倉権五郎景正が戦勝の記念に埋めたとされる兜松の史跡が残されています。ここには合戦で右眼を射られその矢を射返して敵を打ち取ったという景正の武勇伝が残されています。眼に射られた矢を、味方の武士が顔に足をかけて引き抜こうとしたのを怒り、陳謝させたという逸話が有名です。
神戸製鋼の敷地内にある兜松の史跡
(記事作成にあたっては、史跡の碑文や案内をベースに、「日本史の論点(中公新書:編集部編)」「大庭御厨に生きる人々(藤沢市史ブックレット6)」、ウイキペディアなど参照しました。)
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 2020年xx月xx日