大庭御厨と鵠沼皇大神宮 歴史探訪(3)
2020年9月16日 (itazu)
前回までの歴史探訪(1)(2)で、二伝寺、御霊神社を訪ね
①坂東八平氏の祖、平良文の一族によって、10~11世紀関東地方に平氏の武士団が根付いたこと
②祖、良文から5代目に当たる鎌倉権五郎景政が,12世紀始め、茅ヶ崎から藤沢にかけて広大な荘園、大庭御厨(伊勢神宮に寄進)を開発し、後の鎌倉武士、大庭氏や梶原氏など鎌倉党という武士団の盤を確立した事を確認しました。今回は、大庭御厨の総鎮守であった鵠沼の皇大神宮を訪ねました。由緒には,下記のように記されています。
鵠沼皇大神宮
①坂東八平氏の祖、平良文の一族によって、10~11世紀関東地方に平氏の武士団が根付いたこと
②祖、良文から5代目に当たる鎌倉権五郎景政が,12世紀始め、茅ヶ崎から藤沢にかけて広大な荘園、大庭御厨(伊勢神宮に寄進)を開発し、後の鎌倉武士、大庭氏や梶原氏など鎌倉党という武士団の盤を確立した事を確認しました。今回は、大庭御厨の総鎮守であった鵠沼の皇大神宮を訪ねました。由緒には,下記のように記されています。
鵠沼皇大神宮
「奈良時代以来、藤沢・西富・大鋸・辻堂を合わせた相模国土甘郷(とがみごう)総社神明宮といわれ、社殿は832年造立された。
1104年鎌倉権五郎景政が所領の大庭荘を伊勢神宮に御厨として寄進したので、大庭荘が大庭御厨と呼ばれるようになってからは、その領内、即ち東は俣野河(現在の境川)から、西は寒川郷に到る区域、また北は大牧崎(現在の藤沢最北端)から、南は海(現在の片瀬の一部・鵠沼・辻堂・茅ケ崎の海辺の諸村)に到る区域、いわゆる境川と小出川とに挟まれた広大な伊勢神領大庭御厨総鎮守と定められた。」
1104年鎌倉権五郎景政が所領の大庭荘を伊勢神宮に御厨として寄進したので、大庭荘が大庭御厨と呼ばれるようになってからは、その領内、即ち東は俣野河(現在の境川)から、西は寒川郷に到る区域、また北は大牧崎(現在の藤沢最北端)から、南は海(現在の片瀬の一部・鵠沼・辻堂・茅ケ崎の海辺の諸村)に到る区域、いわゆる境川と小出川とに挟まれた広大な伊勢神領大庭御厨総鎮守と定められた。」
鵠沼皇大神宮由緒
大庭御厨は、「境川と小出川とに挟まれた広大な伊勢神領大庭御厨総鎮守と定められた。」とあるように、北はどこまでか不明ですが、地図で想定しますと、下図のような、ほぼ、茅ケ崎、藤沢をカバーする広大な荘園であったことになります。
大庭御厨想定範囲(黄色の領域)
鎌倉権五郎景政は、鎌倉にも強力な支配力を持ってきた源義家に、後三年の役で私兵をだし主従関係をとりながら、自領を拡大し大庭御厨を開発し、一族で領地を守るための武士団を作りました。
この御厨地域は鎌倉景政が開発して以来占有していたのは景政の直系平氏で、大庭を名乗った大庭景継、大庭景宗が管理・運営していました。(彼らは、のちの鎌倉武士、大庭氏、俣野氏、梶原氏などの先祖にあたる人々です。)御厨(みくりや)とは、伊勢神宮などの神社に寄進された荘園のことで、神社に年貢を払うことで、国への租税を免除され公権力の介入を拒絶する不輸不入権がえられ、外部の侵略されにくくなります。大庭御厨の中心は、総鎮守であった①鵠沼の皇大神宮にあり、御厨内には伊勢信仰の神明社、神明宮といった神社が多くありました。
大庭景宗の子世代に、平家物語などで有名な大庭景義、大庭景親、俣野景久の兄弟がいますが、それぞれ懐島(茅ケ崎)、大庭、俣野を拠点に御厨を管理します。
今も、それらの拠点には、館跡、城址などとともに、②神明大神、③大庭神社、④御嶽神宮が、それぞれゆかりの神社として残っています。(図参照)
この御厨地域は鎌倉景政が開発して以来占有していたのは景政の直系平氏で、大庭を名乗った大庭景継、大庭景宗が管理・運営していました。(彼らは、のちの鎌倉武士、大庭氏、俣野氏、梶原氏などの先祖にあたる人々です。)御厨(みくりや)とは、伊勢神宮などの神社に寄進された荘園のことで、神社に年貢を払うことで、国への租税を免除され公権力の介入を拒絶する不輸不入権がえられ、外部の侵略されにくくなります。大庭御厨の中心は、総鎮守であった①鵠沼の皇大神宮にあり、御厨内には伊勢信仰の神明社、神明宮といった神社が多くありました。
大庭景宗の子世代に、平家物語などで有名な大庭景義、大庭景親、俣野景久の兄弟がいますが、それぞれ懐島(茅ケ崎)、大庭、俣野を拠点に御厨を管理します。
今も、それらの拠点には、館跡、城址などとともに、②神明大神、③大庭神社、④御嶽神宮が、それぞれゆかりの神社として残っています。(図参照)
★大庭景宗の時(1144年)、源義朝(頼朝の父)が、大庭の御厨のうち、鵠沼一帯を義朝の領地(鎌倉郡の一部)であるといいがかりをつけて侵入するという事件がありました。
御厨として寄進していても、現地支配の力関係で不安定で抗争が絶えない状況にありましたが、このあたりのことについては、次回、御厨ゆかりの神社(②神明大神、③大庭神社、④御嶽神宮)を訪ねながら、探ります。
(上記記述にあたっては、「大庭御厨に生きる人々」伊藤一美(藤沢市史ブックレット6)「もっと行きたい鎌倉歴史散歩」奥富敬文(新人物文庫)等を参照)
<参考>
鵠沼の皇大神宮は人形山車が有名です。
鵠沼の皇大神宮は人形山車が有名です。
皇大神宮はかつて烏が群がり棲んだことから烏森のお宮とも、また神明様とも呼ばれています。祭神は天照皇大神。天長九年(832)に創立され、延喜年間(901~23)相模国土甘郷の総社に列せられ、長治元年(1104)には伊勢神宮大庭御厨の鎮守となったと伝えられています。また源平屋島の戦いで有名な那須与一が弓と矢を奉納したともいわれます。
8月17日の例祭日には県内でも珍しい人形山車9基が出て賑わいます。宮前の那須与一、上村の源頼朝、清水の神武天皇、宿庭の源義経、苅田の徳川家康、大東の楠正成、仲東の浦島太郎、原の日本武尊、堀川の仁徳天皇の順に参道に整列し、囃しながら神社へ入り、両者向き合って屋台ばやしの競演。祭りは最高潮に達し、拝殿では湯立神楽が行われます。この人形山車は明治の中頃氏子町内会がそれぞれ製作したもので、市の有形民俗文化財に指定され、皇大神宮の祭礼は「かながわの民俗芸能50選」に挙げられています。
(以上、説明は、藤沢市ホームページ:藤沢市文化財ハイキングコース「烏森皇大神宮コース」より。)http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/bunkazai/kyoiku/bunka/bunkazai/course-05.html
8月17日の例祭日には県内でも珍しい人形山車9基が出て賑わいます。宮前の那須与一、上村の源頼朝、清水の神武天皇、宿庭の源義経、苅田の徳川家康、大東の楠正成、仲東の浦島太郎、原の日本武尊、堀川の仁徳天皇の順に参道に整列し、囃しながら神社へ入り、両者向き合って屋台ばやしの競演。祭りは最高潮に達し、拝殿では湯立神楽が行われます。この人形山車は明治の中頃氏子町内会がそれぞれ製作したもので、市の有形民俗文化財に指定され、皇大神宮の祭礼は「かながわの民俗芸能50選」に挙げられています。
(以上、説明は、藤沢市ホームページ:藤沢市文化財ハイキングコース「烏森皇大神宮コース」より。)http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/bunkazai/kyoiku/bunka/bunkazai/course-05.html
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 2020年9月16日