境川流域のサバ神社
歴史探訪(5) 境川流域に12のサバ神社が点在します。サバの社名の由来は、佐馬頭(さまのかみ)だった源義朝を祭神としていることにあります。
歴史探訪(5) 境川流域に12のサバ神社が点在します。サバの社名の由来は、佐馬頭(さまのかみ)だった源義朝を祭神としていることにあります。
境川流域のサバ神社
2020年11月4日 (itazu)
藤沢から横浜、大和にかけて境川流域に12のサバ神社が点在します(内1社は引地川沿い)。サバの社名の由来は、官名が佐馬頭(さまのかみ)だった源義朝(内3社は源満仲)を祭神としていることにあります。「佐馬」のほか「佐波」、「鯖」、「佐婆」などの文字が当てられています。また、「七ッ木」「飯田」など村社だったことから村の名前に変えたところもあります。
俣野の⑪佐馬大明神にある源氏の棟梁を祀る「サバ神社めぐり」の神社一覧と略図(この地図をもとに上図を展開したものです)
境川流域にサバ神社がまとまってあることが全国でも珍しく、境の神を意識した行事や習慣が残っていたことから、民俗学者の柳田国男がその著「石上問答」の中で「相模の佐馬明神又は鯖明神」と特異な神として指摘しています。(横浜市泉区地域別小史)境の神というのは、道祖神と同様、外から襲い来る(A)疫神悪霊等を村境や峠・辻・橋のたもと等で防御するなど境を司る神であり、御霊信仰のように、奈良時代、平安時代に、怨霊の活動によって疫病が流行すると怖れられ、特に、(B)貴族の対立抗争のために失脚した権力者の霊魂が祟ると信じられていました。(柳田国男監修「民俗学辞典」)
(A)疫神悪霊等を村境や峠・辻・橋のたもと等で防御するなど境を司る神
この境川流域には、はやり病にかかると「七サバ参り」をすると治るという風習が江戸時代からあったそうです。七サバはどこか定かではないのですが、中世初期に飯田の庄を起こした飯田三郎能信(よしのぶ)ゆかりの④飯田神社(上飯田)、その弟の飯田五郎家義(いえよし)ゆかりの⑧佐馬神社(下飯田)を核とした風習だったようです。
(七は単なる吉数かもしれないと泉区地域別小史には書かれています。)
飯田五郎家義(いえよし)ゆかりの⑧佐馬神社(下飯田)と義家の館跡といわれる富士塚城址
(B)貴族の対立抗争のために失脚した権力者の霊魂が祟る
源義朝(頼朝の父)は、相模の武士団にとって、頼朝が兵を上げる以前から、関東の武士団を守る棟梁として期待されていました。
その義朝が、平治の乱で平清盛に敗れ無念の死を遂げてしまうわけですが、その鎮魂と嫡子の頼朝による復活が、義朝をこの地域の守護神にしたのかもしれません。
特に、サバ神社ある境川流域は、鎌倉街道上道沿いの飯田の庄に集中しています。中世の飯田氏の庄は、渋谷氏の庄と大庭・俣野氏の庄に挟まれていました。飯田氏は、渋谷氏から分かれたとも、また、大庭氏の配下であったともいわれています。
飯田五郎義家は、頼朝が兵を上げた時、大庭景親、俣野景久、渋谷重国とともに平氏側に組しますが、その他の多くの相模武士団と同様、源氏の再興を望んでいたようで、頼朝を石橋山に追い詰めた時、頼朝軍の味方に転じます。その後も富士川の合戦で頼朝軍として活躍を見せ、当初平氏側だったにもかかわらず、飯田義家は鎌倉幕府から所領を安堵されています。境川は、高座郡と鎌倉郡との国境で氾濫しやすい川です。また飯田の庄は、鎌倉街道上道沿いにある上に、大庭御厨とも隣接し常に合戦に巻き込まれやすい不安定な位置にありましたから、「境の神」として庄を守る強い守護神を必要としていたのかもしれません。
源義朝(頼朝の父)は、相模の武士団にとって、頼朝が兵を上げる以前から、関東の武士団を守る棟梁として期待されていました。
その義朝が、平治の乱で平清盛に敗れ無念の死を遂げてしまうわけですが、その鎮魂と嫡子の頼朝による復活が、義朝をこの地域の守護神にしたのかもしれません。
特に、サバ神社ある境川流域は、鎌倉街道上道沿いの飯田の庄に集中しています。中世の飯田氏の庄は、渋谷氏の庄と大庭・俣野氏の庄に挟まれていました。飯田氏は、渋谷氏から分かれたとも、また、大庭氏の配下であったともいわれています。
飯田五郎義家は、頼朝が兵を上げた時、大庭景親、俣野景久、渋谷重国とともに平氏側に組しますが、その他の多くの相模武士団と同様、源氏の再興を望んでいたようで、頼朝を石橋山に追い詰めた時、頼朝軍の味方に転じます。その後も富士川の合戦で頼朝軍として活躍を見せ、当初平氏側だったにもかかわらず、飯田義家は鎌倉幕府から所領を安堵されています。境川は、高座郡と鎌倉郡との国境で氾濫しやすい川です。また飯田の庄は、鎌倉街道上道沿いにある上に、大庭御厨とも隣接し常に合戦に巻き込まれやすい不安定な位置にありましたから、「境の神」として庄を守る強い守護神を必要としていたのかもしれません。
(境川支流の和泉川沿いにある3社(⑤⑥⑩)の祭神が、義朝ではなく満仲(多田源氏の祖、佐馬権頭)となっています。和泉には、泉小次郎(信濃国出身の源氏で北条氏を打倒しようとした)や木曽義仲の愛妾、巴御前にまつわる伝承などが残されていて信濃源氏に近い満仲を祭神としたのではないかといわれています。(泉区地域別小史による)
(補足)清和源氏の系図:経基(平将門追討征討副将軍)―満仲(多田源氏の祖、佐馬権頭)ー頼信(平の常忠の乱鎮圧)ー頼義(東国の源氏の地位を確立、鶴岡八幡宮の起源)ー義家(陸奥守・鎮守府将軍、東国武士団との主従を強化)ー義親ー為義ー義朝(佐馬頭)ー頼朝)
⑦七ッ木神社、以前は鯖明神社と称されていた。
境川を挟んで⑧佐馬神社(下飯田)と対面流域にある。
藤沢側にも、四社があり、長後、湘南台に⑦七ッ木神社、⑨鯖神社、俣野に⑪佐馬大明神、石川の引地川沿いに⑫佐波神社がありますが、由緒によれば、⑦七ッ木神社が古くから七ッ木村の「サバ神社」としてあり、渋谷氏ゆかりの神社のようです。
今回、唯一引地川流域にある石川の佐波神社。
サバ神社は、鎌倉北条の世にあっては「佐馬」を「鯖」に変えたり、水害のあった後「佐波」に変えるなど歴史の流れの中で、いろいろな文字を変えてきています。「サバ」というユニークな名称がこの神社群を特異な「境の神」として、今に伝え来ているように思います。*本記事の作成にあたっては、「横浜市泉区地域別小史」「相模のもののふたち」(永井路子著)等を参考にしました。
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 2020年11月05日