戦国時代の大鋸(だいぎり)
歴史探訪10:遊行寺の門前の境川と滝川の合流あたりを中心に「大鋸(だいぎり)」の地名があります。
歴史探訪10:遊行寺の門前の境川と滝川の合流あたりを中心に「大鋸(だいぎり)」の地名があります。
歴史探訪10
戦国時代の大鋸(だいぎり)
2021年3月26日 (itazu)
遊行寺の門前の境川と滝川の合流あたりを中心に「大鋸(だいぎり)」の地名があります。
このあたりに、室町時代から、材木から板をつくる大鋸引(おおがびき)という職人が住んでいたことから名づけられたといわれています。鎌倉時代から船などの材木を切り出したところ
このあたりに、室町時代から、材木から板をつくる大鋸引(おおがびき)という職人が住んでいたことから名づけられたといわれています。鎌倉時代から船などの材木を切り出したところ
境川、滝川の合流点(左:「旧東海道藤沢宿」MAP、右、藤沢橋から写した写真)
この大鋸には、遊行寺をはじめ船玉神社、感応院の三嶋明神など「藤沢」の地域の原点となるような史跡や伝説などがが残されています。
船玉神社(ふなだまじんじゃ)
◆船玉神社(ふなだまじんじゃ)
この滝川のほとりの大鋸には、船玉神社(ふなだまじんじゃ)があります。
この神社のある船久保町内の立て札には、
「神社前の道は、鎌倉街道で腰越又は深沢を通って鎌倉へ入ったようです。昔は江の島からこの付近まで船が出入りしていたといわれ、鎌倉三代将軍源実朝が船を造らせたとき材木を切り出したところと伝えられています。ここは大鋸という地名ですが大鋸引(おおがびき)という職人が住んで船大工や玉縄城の御用などをしていたといわれています。」
と書かれています。
この滝川のほとりの大鋸には、船玉神社(ふなだまじんじゃ)があります。
この神社のある船久保町内の立て札には、
「神社前の道は、鎌倉街道で腰越又は深沢を通って鎌倉へ入ったようです。昔は江の島からこの付近まで船が出入りしていたといわれ、鎌倉三代将軍源実朝が船を造らせたとき材木を切り出したところと伝えられています。ここは大鋸という地名ですが大鋸引(おおがびき)という職人が住んで船大工や玉縄城の御用などをしていたといわれています。」
と書かれています。
感応院
三嶋大明神
◆三嶋大明神
この神社のすぐ隣には、藤沢宿で最も古い寺(1218年開山)の一つといわれる感応院がありますが、この寺も、鎌倉幕府3代将軍源実朝が開基と伝えられています。この感応院にある三嶋大明神は、源頼朝が勧請し家臣の藤沢清親が奉行していたといわれ、清親の居住地が「藤沢」の地名の由来という説があります。
(ただし、地名の由来については、藤沢市のホームページによれば、淵沢(ふちさわ)が藤沢(ふじさわ)に転化したとする説の方が有力です。)
◆影取池伝説
「遊行寺の遊行寺の東側、滝川のほとりの大鋸に、森というお大尽(だいじん)が住んでいて、その大きな池に飼われていた大蛇が、大飢饉の折逃げ出し、滝川を遡り戸塚の方の池に住みつき、池に写る人影を襲うようになり、鉄砲で退治された」という話で、『影取池』、『鉄砲宿』など付近の地名に絡んだ伝説です。伝説に見られる「お大尽」の森家先祖は、室町時代の中期頃から藤沢の大鋸に住んだといわれる大鋸引(おおがびき:材木から板をつくる)の職人ですが、それ以前の鎌倉時代から、この地は、鎌倉幕府の支配下にあって、境川の水運を利用した、鎌倉の都の建築や船材を用立てる場所であったと推測されます。船玉神社、船久保という地名や淵、池、川などにまつわる伝説が残されているのも関連がありそうです。
この神社のすぐ隣には、藤沢宿で最も古い寺(1218年開山)の一つといわれる感応院がありますが、この寺も、鎌倉幕府3代将軍源実朝が開基と伝えられています。この感応院にある三嶋大明神は、源頼朝が勧請し家臣の藤沢清親が奉行していたといわれ、清親の居住地が「藤沢」の地名の由来という説があります。
(ただし、地名の由来については、藤沢市のホームページによれば、淵沢(ふちさわ)が藤沢(ふじさわ)に転化したとする説の方が有力です。)
◆影取池伝説
「遊行寺の遊行寺の東側、滝川のほとりの大鋸に、森というお大尽(だいじん)が住んでいて、その大きな池に飼われていた大蛇が、大飢饉の折逃げ出し、滝川を遡り戸塚の方の池に住みつき、池に写る人影を襲うようになり、鉄砲で退治された」という話で、『影取池』、『鉄砲宿』など付近の地名に絡んだ伝説です。伝説に見られる「お大尽」の森家先祖は、室町時代の中期頃から藤沢の大鋸に住んだといわれる大鋸引(おおがびき:材木から板をつくる)の職人ですが、それ以前の鎌倉時代から、この地は、鎌倉幕府の支配下にあって、境川の水運を利用した、鎌倉の都の建築や船材を用立てる場所であったと推測されます。船玉神社、船久保という地名や淵、池、川などにまつわる伝説が残されているのも関連がありそうです。
森家が大鋸引の職人の棟梁、戦国時代に活躍
遊行寺
当時遊行寺は、1513年戦乱により焼失し、無住無仏の廃墟と化していましたが、時宗本山として、老若男女や僧侶も多く参集していたようです。〔遊行寺の再建は、約百年後の1607年です。〕
森家は古くは遊行上人に同行していた職人衆の一人で、16世紀小田原北条氏の時代から活躍します。
藤沢市教育文化センタのアーカイブ「森家と大鋸の地名の起こり」によれば、
森家は、大鋸引の職人で、その棟梁の位置にあり次のような活躍をしています。①後北条氏直属の職人衆として、森家の大鋸引としての技術は、戦国時代城造りや修理に重要な役割を果たし、関東各地の築城や修理、造船技術の面でも活躍をみせています。
藤沢市教育文化センタのアーカイブ「森家と大鋸の地名の起こり」によれば、
森家は、大鋸引の職人で、その棟梁の位置にあり次のような活躍をしています。①後北条氏直属の職人衆として、森家の大鋸引としての技術は、戦国時代城造りや修理に重要な役割を果たし、関東各地の築城や修理、造船技術の面でも活躍をみせています。
②宿場が形成されてからは、宿の問屋役(宿駅業務)や伝馬(てんま))役を北条氏から命じられ、旅人や商人を宿泊させ、また、領主の御用のために馬を仕立てる役を勤めました。森家を棟梁とする大鋸引の集団の居住地は、遊行寺の門前にあたり、付近には約300軒近い家々が軒を並べていたと言われています。
③触口(しょっこう)役〔命令伝達係〕として遊行上人のもとの僧侶の管理を命じられなど町政権の一端を担うとともに、森家は、塩干魚・酒の販売という商業にも力を延ばし、金融関係まで手を広げるなど、
藤沢の宿を門前町から商業流通の宿場・市場へと発展させる原動力となりました。
戦国時代は近世の新しい時代を生み出した建設の時代戦国時代は、下剋上の戦乱の時代ですが、近世の新しい時代を生み出した建設の時代ともいわれます。
①治水土木術を基礎にした築城術、灌漑工事、②都市、商業、交通の発達による城下町の建設などによる新しい国づくりが戦国領主に要求された時代でもあります。戦国時代は、「北条早雲の伊豆、小田原への侵入」から始まり、「秀吉の小田原攻め」で終わりといわれるほど、関東の後北条の100年の支配は、典型的な戦国領主の国造りでした。
藤沢は、玉縄城下として、鎌倉ー小田原を結ぶ中継基地として地理的に交通の要地であり、森家の例のような宿場町振興政策を後北条がとることになったのも、織田信長の楽市楽座政策に似た新しい時代への要請の貴重な事例と言えそうです。(伊藤一美「戦国時代の藤沢」参照)
①治水土木術を基礎にした築城術、灌漑工事、②都市、商業、交通の発達による城下町の建設などによる新しい国づくりが戦国領主に要求された時代でもあります。戦国時代は、「北条早雲の伊豆、小田原への侵入」から始まり、「秀吉の小田原攻め」で終わりといわれるほど、関東の後北条の100年の支配は、典型的な戦国領主の国造りでした。
藤沢は、玉縄城下として、鎌倉ー小田原を結ぶ中継基地として地理的に交通の要地であり、森家の例のような宿場町振興政策を後北条がとることになったのも、織田信長の楽市楽座政策に似た新しい時代への要請の貴重な事例と言えそうです。(伊藤一美「戦国時代の藤沢」参照)
(参照した資料)
・藤沢市教育文化センタ教育アーカイブ、「藤沢を知る」https://www1.fujisawa-kng.ed.jp/kyobun-c/index.cfm/11,3274,68,html)
・「戦国時代の藤沢」(伊藤一美著:藤沢文庫)
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 2021年3月26日