歴史探訪問⑳ 伝 義経首洗い井戸
2022年2月23日 (itazu)
旧東海道(国道467号線)沿いの「かながわ信用金庫」とマンションの間の小道を入っていくと、公園の片隅に「伝 義経首洗い井戸」があります。

案内表示と地図(右)


義経首洗い井戸

源義経は兄、源頼朝に鎌倉を追われ奥州平泉に逃げていましたが、1189年藤原泰衡は、亡父秀衡がかくまっていた義経を攻め、ついに衣川で義経を自刃させました。享年31歳、幾多の合戦で名声を上げた英雄の悲劇的な最期でした。

弁慶が祀られた八王子社跡
平泉から鎌倉に送られてきた義経の首は、腰越にて、和田義盛、梶原景時による首実検が行われ、片瀬の浜に捨てられたといわれています。潮にのって境川をさかのぼり白旗神社付近に漂着した義経の首を里人がすくいあげ、この井戸で洗い清めたということです。なお、少し離れた場所に、弁慶が祀られた八王子社跡があります。(上記地図参照)

源義経公鎮霊碑
ここから200メートルほど北の白旗神社は祭神として義経を祀っており、境内には、「藤沢の御首」と「宮城県栗原市の判官森に葬られた御骸の霊」を合わせ祀った源義経公鎮霊碑などがあります。
当時、白旗神社は、寒川神社の寒川比古宮を祀っていたため、同じ名前の寒川神社と呼ばれていましたが、頼朝が、義経の首が白旗神社付近に漂着した話を聞くと、白旗が源氏の旗であったことから義経を白旗明神として合祀することを指示しました。
当時、白旗神社は、寒川神社の寒川比古宮を祀っていたため、同じ名前の寒川神社と呼ばれていましたが、頼朝が、義経の首が白旗神社付近に漂着した話を聞くと、白旗が源氏の旗であったことから義経を白旗明神として合祀することを指示しました。

白旗神社境内の義経弁慶像
のちに(1752年)、社殿が再建され、旧坂戸町総鎮守となってから「白旗神社」と呼ばれるようになりました。(白旗神社ホームページ、「藤沢―わがまちのあゆみ」、案内説明板参照)
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2022年xx月xx日
