平塚 六ノ域 遺跡発掘
ずいか そうちょう はちりょうきょう(瑞花双鳥八稜鏡) 唐鏡から和鏡への移行期につくられた鏡。平塚の六ノ域遺跡で発掘。
ずいか そうちょう はちりょうきょう(瑞花双鳥八稜鏡) 唐鏡から和鏡への移行期につくられた鏡。平塚の六ノ域遺跡で発掘。
平塚 六ノ域 遺跡発掘
2022年4月29日 gantyan
平塚市 新四之宮公民館の建設に先立ち発掘調査が行われている六ノ域遺跡から、
「瑞花双鳥文八稜鏡」(ずいかそうちょうもんはちりょうきょう)と呼ばれる平安時代の鏡が出土しました。
「瑞花双鳥文八稜鏡」(ずいかそうちょうもんはちりょうきょう)と呼ばれる平安時代の鏡が出土しました。
八稜鏡「X線撮影写真」
国際文化財株式会社提供
国際文化財株式会社提供
ずいか そうちょう はちりょうきょう (瑞花双鳥八稜鏡)
唐鏡から和鏡への移行期につくられた鏡。八つの突起(矮)が付くことから八稜鏡と呼ばれ、紐を挟んで向かい合う二羽の鳥と草花文が配される文様構成から「瑞花双鳥八稜鏡」と名付けられています。遺跡から出土した同鏡は、全国で338例ほどあるとされ、神奈川県内での出土は、逗子市池子遺跡群に次ぐ2例目と見られます。中世の遺構調査を終え、平安時代以前の遺構検出中に発見されました。和鏡研究者である青木豊氏(國學院大學 客員教授・鎌倉歴史文化交流館館長)によれば、その鏡の形式・文様構成から和鏡出現(11世紀後半)以前の11世紀前半頃の所産と考えられるそうです。
出土した鏡は銅製で、直径111mm、厚さ2・6mm、重さ149g。輪郭部に8つの突起がある「八稜形」と呼ばれる形状で、X線写真では背面に2羽の鳥と草花の文様が描かれていることが分かりました。
出土した鏡は、平塚市博物館で5月8日まで開催中の春期特別展「掘り起こされた平塚IV?姿をあらわす遺跡たち~」で展示されています。
唐鏡から和鏡への移行期につくられた鏡。八つの突起(矮)が付くことから八稜鏡と呼ばれ、紐を挟んで向かい合う二羽の鳥と草花文が配される文様構成から「瑞花双鳥八稜鏡」と名付けられています。遺跡から出土した同鏡は、全国で338例ほどあるとされ、神奈川県内での出土は、逗子市池子遺跡群に次ぐ2例目と見られます。中世の遺構調査を終え、平安時代以前の遺構検出中に発見されました。和鏡研究者である青木豊氏(國學院大學 客員教授・鎌倉歴史文化交流館館長)によれば、その鏡の形式・文様構成から和鏡出現(11世紀後半)以前の11世紀前半頃の所産と考えられるそうです。
出土した鏡は銅製で、直径111mm、厚さ2・6mm、重さ149g。輪郭部に8つの突起がある「八稜形」と呼ばれる形状で、X線写真では背面に2羽の鳥と草花の文様が描かれていることが分かりました。
出土した鏡は、平塚市博物館で5月8日まで開催中の春期特別展「掘り起こされた平塚IV?姿をあらわす遺跡たち~」で展示されています。
八稜鏡写真 (現物)
平塚市教育委員会 提供
平塚市教育委員会 提供
井戸跡
平塚市四之宮は奈良・平安時代の遺跡が多数存在しており、相模国府推定域とされています。発掘された遺跡の紹介です。
平塚市四之宮は奈良・平安時代の遺跡が多数存在しており、相模国府推定域とされています。発掘された遺跡の紹介です。
井戸跡
現在までに確認された、遺構及び遺物は次の通りです。
1面 中世 *鎌倉・戦国時代
柱穴列 1条
溝状遺構 1条
土坑 21 ※ ある程度の大きさと深さを持った掘り込み
ピット 9基 ※ 柱を立てるなどに掘った穴
2・3面 古墳時代後期・奈良・平安時代
竪穴住居址 29 軒 竪穴状遺構 6 軒 掘立柱建物址 8 棟 柱穴列 1 条
溝状遺構 22 条 井戸址 7 基 土坑 46 基 柱穴 380 基
出土遺物
土師器 須恵器 灰釉陶器 緑釉陶器 中世陶器 青磁 白磁 瓦
土製品 (土錘等)
石器・石製品 (磨石 石鏃 砥石等)
金属製(釘 刀子 鏃等の鉄製品 蓋 飾り金具 鏃等の銅製品)
銭貨等
テンバコで約210箱程出土しています。竪穴住居址南側に多く、 特に南西側は激しく重複しています。
現在までに確認された、遺構及び遺物は次の通りです。
1面 中世 *鎌倉・戦国時代
柱穴列 1条
溝状遺構 1条
土坑 21 ※ ある程度の大きさと深さを持った掘り込み
ピット 9基 ※ 柱を立てるなどに掘った穴
2・3面 古墳時代後期・奈良・平安時代
竪穴住居址 29 軒 竪穴状遺構 6 軒 掘立柱建物址 8 棟 柱穴列 1 条
溝状遺構 22 条 井戸址 7 基 土坑 46 基 柱穴 380 基
出土遺物
土師器 須恵器 灰釉陶器 緑釉陶器 中世陶器 青磁 白磁 瓦
土製品 (土錘等)
石器・石製品 (磨石 石鏃 砥石等)
金属製(釘 刀子 鏃等の鉄製品 蓋 飾り金具 鏃等の銅製品)
銭貨等
テンバコで約210箱程出土しています。竪穴住居址南側に多く、 特に南西側は激しく重複しています。
2面では9世紀後半、11世紀前半頃の竪穴住居址が確認されています。
3面では西~南側5軒は7世紀後半~8世紀前半の遺物を伴っており、北側の1軒は9世紀頃の遺物が出土しています。竪穴住居址は古墳時代、奈良時代、平安時代と時代が下るにつれ、規模が小さくなる傾向がありますが、南側の5軒は比較的大きく、なかでも一軒は一辺が10m余の規模で、4箇所の柱穴があり、太い柱4本で上屋を支えていたと推測されます。有力者が居住していたのでしょうか。カマドは削平されていますが、西側に赤く被熱した痕跡がわずかに残っています。※黄色の柱は推定
3面では西~南側5軒は7世紀後半~8世紀前半の遺物を伴っており、北側の1軒は9世紀頃の遺物が出土しています。竪穴住居址は古墳時代、奈良時代、平安時代と時代が下るにつれ、規模が小さくなる傾向がありますが、南側の5軒は比較的大きく、なかでも一軒は一辺が10m余の規模で、4箇所の柱穴があり、太い柱4本で上屋を支えていたと推測されます。有力者が居住していたのでしょうか。カマドは削平されていますが、西側に赤く被熱した痕跡がわずかに残っています。※黄色の柱は推定
掘立柱建物址
東側の南端・北端、中央及び南側、北西隅で確認されました。概ね、2間×3間の側柱式建物と考えられますが、北西隅の建物址は3間×3間と考えられ、柱穴の規模も他より大きく特別な建物であったかもしれません。
他にも柱穴と考えられる遺構が多数確認されているので、もっと多くの建物が存在したと考えられています。掘立柱建物址の時期は、重複関係から3面南西側の竪穴住居址より新しいと考えられます。
溝状遺構
南北方向に延びる溝と東西方向に延びる溝があり、重複関係から概ね南北方向のほうが新しく、東西方向は古いと考えられます。 区画の境を示すと考えられ、東西の溝より南側に遺構が多く見られます。また南北の溝は何回も掘り直したと考えられます。須恵器や灰釉陶器などの破片が大量に出土しました。壺や水注などで一度に投棄したと推定されます。
南北方向に延びる溝と東西方向に延びる溝があり、重複関係から概ね南北方向のほうが新しく、東西方向は古いと考えられます。 区画の境を示すと考えられ、東西の溝より南側に遺構が多く見られます。また南北の溝は何回も掘り直したと考えられます。須恵器や灰釉陶器などの破片が大量に出土しました。壺や水注などで一度に投棄したと推定されます。
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 2022年4月29日