歴史探訪問(26):北条執権の屋敷跡「宝戒寺」と「東勝寺」跡地、北条最後の執権:北条高時の腹切やぐらを訪ねます。
北条執権の屋敷跡「宝戒寺」と「東勝寺」跡地
宝戒寺参道
宝戒寺は、鶴岡八幡宮の三の鳥居前の道を行った突き当りにあります。
北条義時以来の歴代北条得宗(惣領)家の屋敷跡といわれるところです。
得宗とは、北条氏惣領の家系で、1時政、2義時、3泰時、4時氏、5経時、6時頼、7時宗、8貞時、9高時までの9代をいいます。(時頼以降、得宗以外の執権が6人います)
宝戒寺
執権と評定衆の支配体制だった北条鎌倉幕府は、5代経時から弟の6代時頼に受け継がれると、三浦氏など対抗勢力が強くなり、時頼は、叔父の重時を連署(副執権)に迎え、得宗の支配力を強化します。
そして、宮騒動や宝治合戦を経て、名越氏や三浦一族等、幕府内の反得宗、反北条の勢力を排除します。
7代時宗は、蒙古の元寇対応に追われますが、元寇の恩賞を廻って幕府への御家人の不満が高まるなか、8代貞時の時、得宗派の平信綱が御家人派の安達泰盛を排除し(霜月騒動)、得宗専制による北条独裁政治となりました。
この得宗専制に対する反発から倒幕機運が全国に高まりはじめました。この機運に乗じ、倒幕を企てたのは、後醍醐天皇でした。
後醍醐天皇による正中、元弘の変、それに呼応した足利尊氏、新田義貞の挙兵により、1333年鎌倉幕府は亡びました。9代高時の最後は無残な敗北でした。
北条氏代々の墓のあった東勝寺と腹切やぐら
宝戒寺は、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて北条一族を弔うために得宗執権屋敷跡に創建させた寺です。
この寺は、北条泰時が1237年に創建した禅寺ですが、鎌倉幕府滅亡の時、9代高時と一族郎党は、この寺で自刃し、その数870人といわれます。
跡地の先に、「切腹やぐら」といわれる石窟があり、高時の墓とされる石塔が多くの卒塔婆に囲まれて立っています。
藤沢の長後高倉の東勝寺
藤沢の長後の高倉に東勝寺がありますが、南北朝時代に、9代高時一族の滅亡を悼みひそかに建立されたとも伝えられています。
(鎌倉にあった北条氏滅亡の東勝寺が移ったとも伝えられています。)
藤沢の渋谷氏や厚木の本間氏なども北条幕府軍として戦い敗北をし、また、1335年に9代高時の子、時行が北条の再興を図って挙兵(中先代の乱)しており、北条残党の相模武士の無念の思いが、この寺に残されているのかも知れません。
(参照資料:鎌倉の寺社122を歩く(山折)PHP新書、ウィキペディア、藤沢ーわがまちのあゆみー、日本の歴史(五味文彦)小学館 他)