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名越切通し ー 特に鎌倉時代の面影を残す
名越切通し
特に鎌倉時代の面影を残す
名越切通は鎌倉と三浦半島を結ぶ陸の要路の一つでした。難越えと言われる程険し通路であったのがなまって、名越と言われる様になったと言われています。狭隘な山道であった為近年一般道路として利用されなかった為切通しとして残り、隣接した平場や切岸(敵の侵入を防ぐために造られた急傾斜の断崖、防御施設)、やぐら(横穴式のお墓)等が多く見られる為、鎌倉七切通しのなかでも特に鎌倉時代等の姿をよく残していると言われています。 明治になると鎌倉と逗子を結ぶ道路と鉄道が切通の下をトンネルで抜けるようになって交通路としての使命を終えました。1966(昭和41)年には国の史跡に指定されました。
切通しは狭く曲がりくねり岩肌がすぐそばまで迫っている所が多々見られ、一番逗子側にある第一切通の幅は約90cmしかありません。かつては2m以上の幅があったそうですが、地震等による崖崩れで狭まったといわれています。登り下りの鬱蒼とした山道が続きます。珍しい「まんだら堂やぐら群」が見えます。やぐらとは横穴式のお墓のことで鎌倉は平地が少なかったので埋葬は郊外に位置する切通付近に多く作られた。現在は春秋に一度ずつ公開されています。途中、分岐路を北の衣張山方面へ進むと「お猿畠の大切岸」があります。近年の調査では石切場跡と確認されましたが、防衛的要素のある要害としての性格もあったのではないかともいわれています。
長い急な階段が続いています。まるで深山のような雰囲気です。 階段を下りきると横須賀線の名越トンネルの上に出ます。はるか向こうに鎌倉の市街が望めます。 ほぼ小一時間の距離ですが右左岩が迫ったり迫力があり楽しめます。足元はかなり悪いのでハイキングシューズなどお勧めです。
参考:逗子市公式ホームページ、ウィキペディア
参考:逗子市公式ホームページ、ウィキペディア
極楽寺坂切通し ー 京都へ往来の鎌倉の入り口
極楽寺坂切通し
京都へ往来の鎌倉の入り口
極楽寺坂切通は鎌倉の中では最も西に位置し京都と鎌倉を結ぶ重要な連絡路で極楽寺方面から由比ヶ浜方面に抜ける切通し道である。京都への往来は鎌倉時代初期には海岸線ぎりぎりにあったとされる稲村路が使われていたがかなり不便、岩などで危険という事でで鎌倉時代後半に開かれ、以後主要な交通路となった。現在は従来の高さから大きく削られ自動車が対面で通れる一般道路に改修されています。高い所の岩壁などは通常の視界には無く、かつての面影は殆ど残ってい無い為 鎌倉切通の中で唯一、国指定史跡に登録されていません。
(左)極楽寺側より望む。(右)鎌倉の海方面から望む。両側には岩壁は見えますが、かつての歴史の痕跡は見えず、現在は鎌倉の海方面から、右斜め方向で江の島方面に向い、途中極楽寺駅を通り、江ノ電の線路と平行して通る一般的な坂道の自動車道になっています。
この極楽寺坂周辺は険しい岩山に囲まれていました。かつては切通しは隣接する成就院と同じ標高(約89.8m)にあったとされ、現在の切通しはほぼ極楽寺と同じ標高(約30m)にあります。かつては約60mもの高い所にあった事になります。周りの山並みを見ても切り立って険しい箇所が多く見られます。
新田義貞 鎌倉攻めの激戦が歴史に名高い切通し
新田義貞が結果的に鎌倉幕府を滅亡させた戦いが起きましたが、戦いは巨福呂坂、仮粧坂、極楽寺坂の3個所から鎌倉攻めになりました。太平記によると新田軍60万、対幕府軍24万が戦った戦いです。現在の鎌倉の人口は17万人ですから84万人もの兵が鎌倉周辺にいたというのは数的にはかなり無理がある話との説もありました。 新田軍は仮粧坂に40万、巨福呂坂に10万、極楽寺坂に10万を配置し戦いましたが幕府軍は兵の数は少ないものの自然の要塞は守りに易し、攻め手に難。最終的には鎌倉幕府は滅ぼされるのですが、こと切通での戦いでは幕府軍は優位に守っていました。その中で特に極楽寺坂切通は圧倒的な幕府軍勝利で新田軍は大将の大館宗氏が討ち死という惨敗をきしました。以後有名な 新田義貞は稲村が埼で金の刀を海に投げ入れ、潮が引き、一気に鎌倉に攻め入ってほぼ1日で鎌倉幕府は滅亡しました。
幕府軍最後の勝利がこの極楽寺坂の戦いになる様です。
幕府軍最後の勝利がこの極楽寺坂の戦いになる様です。
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