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巨福呂坂切通し ー 新田義貞と鎌倉軍 激戦の場所
巨福呂坂切通し
新田義貞と鎌倉軍 激戦の場所
巨福呂坂切通しは現在は鎌倉幕府当時の姿を全く留めておらず、その場所はトンネル(ロックシェード)で横浜鎌倉道路となり車が頻繁に行き来する道路になっています。かつての山越えの古道である切通しは私有地の関係もあり使われておらす行き止まりになっています。
巨福呂坂は鎌倉から、鎌倉街道中道(なかつみち)として奥州へ至る主要道路であった。鎌倉幕府当時は巨福呂坂切通しは高い岩山の上部付近にあり、険しい山道だった。写真で見る連なる高い岩山の中央部を削り切通しにした。それでも高い位置で険しい山道であつた。明治時代に工事がされ現在の道路の位置に掘り下げられた。平成5年にトンネル(ロックシェード)が設置されたがトンネル脇には「切通しを歩いている実感を損なわれないようにアーチ状の梁とし、天井開口部を大きな六角形にし、石積みの壁を造るなど雰囲気を改善」と書かれていた。今は車で通る事も多く、そこが切通しとの印象はまず無い。新田義貞が鎌倉幕府を攻め結局幕府滅亡に至りましたが、最初の攻防の戦場となったのが3つの切通しでその一つがこの巨福呂坂でした。(他2つは仮粧坂、極楽寺坂) この巨福呂坂の戦いでは防御が固く新田軍は勝利する事は出来ませんでした。それは画像でみると高い崖の上から攻撃する幕府軍と下から攻める新田軍の地理的な攻防優劣の差を容易に想像する事が出来ます。
巨福呂坂切通しへ向かう道筋。先は私有地もあり立ち入る事は出来ずUターンとなる。
亀ヶ谷坂切通し ー 亀がひっくり返える程急な坂
亀ヶ谷坂切通し
亀がひっくり返える程急な坂
亀ヶ谷坂切通し(かめがやつざかきりどおし)は鶴岡八幡宮裏手の雪ノ下から現在のJR北鎌倉駅付近及び建長寺を結ぶ峠道として作られました。地名は場所として亀ヶ谷坂(現在の扇ガ谷)がありましたが、当時は亀がひっくり返える程急な坂であったことから名づけられたと書いてある。しかし現在は整備され建長寺付近と扇ガ谷・鎌倉駅方面を結ぶ生活道路と言うよりのどかな散歩道になっています。車も入れませんし、舗装されていてなだらかな坂で歩きやすく道幅も広いです。しかし側面には切り立つ岩肌ががあったり、巨木があったりでかつての切通しの面影は残っています。
現在の亀ヶ谷坂切通しは 両側に木は鬱蒼と生えているものの 整備されていてのどかな散歩道になっています。
昔の面影を残し高い岩肌が反りだしている岩壁が多少残る。一方建長寺側出入り口はあたかも公園の入り口の様な感じでとてもかつての険しい高い峠の面影は感じられない。また横浜鎌倉線の自動車道路に面していて信号もある。
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