鎌倉 明月院の歴史を辿る歴史探訪問(30)紫陽花など花の寺として有名な鎌倉 明月院の歴史を辿ります。
歴史探訪問(30)鎌倉 明月院の歴史を辿る
2022年10月5日 (itazu)
鎌倉の明月院は、紫陽花等花の寺として有名ですが、歴史を辿ると、三世紀にわたる重層した歴史をもっています。
❶この山内荘を領した鎌倉幕府御家人、山内首藤俊道(12世紀)
❷第5執権北条時頼(13世紀)
❸山内上杉の祖、上杉憲方(のりかた)(14世紀)
などのゆかりの寺院でもあります。
❶この山内荘を領した鎌倉幕府御家人、山内首藤俊道(12世紀)
❷第5執権北条時頼(13世紀)
❸山内上杉の祖、上杉憲方(のりかた)(14世紀)
などのゆかりの寺院でもあります。
明月院入口
創建は山内首藤経俊◆明月院の前身は、1160年「明月庵」として、この地の武将で、平治の乱で戦死した山内首藤俊道の供養のため、子の経俊によって創建されました。
山内首藤俊道は源義朝に仕え妻は頼朝の乳母でした。子の経俊は石橋山の戦いの時、平家方につき捕らえられますが、母の懇願で許され、御家人として頼朝に仕えています。
山内首藤俊道は源義朝に仕え妻は頼朝の乳母でした。子の経俊は石橋山の戦いの時、平家方につき捕らえられますが、母の懇願で許され、御家人として頼朝に仕えています。
最明寺史跡
北条時宗が福源山禅興寺として再興しました。
北条時頼墓所
北条時頼の持仏堂「最明寺」◆約100年後の1256年、北条時頼がこの地に、「最明寺」という持仏堂建てました。
時頼は、祖父の第3代執権泰時の後、兄経時(つねとき)から職の委譲を受け1246年第5代執権につき、北条政権の全盛期を迎えるとともに、臨済宗に深く帰依し、1253年建長寺を創建しました。
彼自身は、この最明寺で出家しています。
1263年時頼が死後、最明寺は荒廃したため、子の時宗がそれを再興し、禅興寺としました。
時頼は、祖父の第3代執権泰時の後、兄経時(つねとき)から職の委譲を受け1246年第5代執権につき、北条政権の全盛期を迎えるとともに、臨済宗に深く帰依し、1253年建長寺を創建しました。
彼自身は、この最明寺で出家しています。
1263年時頼が死後、最明寺は荒廃したため、子の時宗がそれを再興し、禅興寺としました。
禅興寺の支院「明月院」◆時は下り、足利時代の1380年、第2代鎌倉公方、足利氏満が、管領の上杉憲方に中興を命じて禅興寺の伽藍を完備し、寺域を広大し支院を配備しました。
禅興寺は、義満の頃、関東十刹の第一位の寺勢を誇り、その盛時に支院として「明月庵」は「明月院」と改められました。
本寺の禅興寺は江戸時代に衰退し、廃寺となり、明月院だけが残ったといわれます。
国指定史跡となっています。
禅興寺は、義満の頃、関東十刹の第一位の寺勢を誇り、その盛時に支院として「明月庵」は「明月院」と改められました。
本寺の禅興寺は江戸時代に衰退し、廃寺となり、明月院だけが残ったといわれます。
国指定史跡となっています。
山内首藤俊道の供養のために造られた「明月院やぐら」開山堂の近くに「明月院やぐら」があります。
やぐらの壁面に釈迦如来像や十六羅漢等が彫られています。このやぐらは、山内首藤俊道の供養のために造られましたが 、中央には、管領の上杉憲方を祀る宝篋印塔もあります。
本堂(仏殿)
本堂(仏殿)には、丸窓がしつらえられ、奥庭園の風景を映しています。
(参照資料:鎌倉の寺社を歩く」PHP新書、明月院パンフレット、ウィキペディア他)
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 2022年10月01日