歴史探訪(31)東京「渋谷」の地名は、平安時代末期から相模国高座郡の荘園であった渋谷荘の渋谷氏に由来するといわれています。
歴史探訪(31)「高座渋谷」と東京「渋谷」
東京の「渋谷」の地名は、平安時代末期からの相模国高座郡の荘園であった渋谷荘の渋谷氏に由来するといわれています。
「武蔵南部に住していた桓武平氏秩父氏の庶流河崎氏は、1161年武蔵国荏原郡から相模国高座渋谷荘までを領有することになり渋谷荘司(渋谷重国)と称した。」(ウィキペディア)
一方、神奈川県大和市の小田急線には「高座渋谷」という駅がありますが、こちらも駅名は、渋谷の荘に由来しています。
渋谷重国は、桓武平氏であったことから、源平合戦では当初、隣荘の大庭氏とともに平家に味方していましたが、後、頼朝に下り、頼朝政権で所領を安堵されています。
藤沢市長後の天満宮
東京渋谷の金王八幡宮
藤沢の長後に「天満宮」がありますが、渋谷重国の祖父河崎基家が、築城した居舘跡といわれています。
一方、東京渋谷駅東口から首都高沿い六本木よりの徒歩5分ところに「金王八幡宮」がありますが、由緒には、これも重国の祖父河崎基家が鎮祭したと書かれています。
渋谷氏は、重国の祖父河崎基家の時代から、武蔵南部から相模北部に至る広大な荘を領有していたようです。
(注)渋谷氏の本拠は、綾瀬の早川城址にありますが、藤沢市の歴史には、1189年頼朝が鷹狩のため大庭御厨の辺迄来て高座郡の渋谷重国の館に泊まったといわれており、頼朝の頃には、長後が渋谷氏の拠点になっていたかもしれません。
金王丸御影堂:保元の乱出陣の折り、自分の姿を彫刻し母に残した木像が納められている
金王八幡宮の由緒には
「1092年渋谷氏の祖河崎基家に鎮祭され、基家の子重家が鎌倉街道沿いの要所であるこの地に居城して以来、渋谷氏の氏神として尊崇されました。重家には嫡子がなく当神社に祈願したところ渋谷金王丸常光(後の土佐坊昌俊)を授かりました。金王丸の活躍は平治物語、吾妻鏡などにみられるとおりです」
とあります。
金王丸といわれる人物は、高座郡渋谷の重国の兄弟だったのではないかといわれています。
土佐坊昌俊石碑(鎌倉)
この金王丸は、後の土佐坊昌俊と書かれています。
金王丸は、下野(栃木県)を拠点として、源義朝に仕え、義朝の死後、出家して土佐坊昌俊と名を変えます。義朝は、平治の乱で敗走し、途中、尾張の家人長田父子の裏切りに遭い敗死しますが、その時、金王丸は預かっていた主君の太刀で戦い、義朝の最後を、妻の常盤御前(義経の母)に知らせています。その後、出家し諸国を行脚し、主の菩提を弔い、名を土佐坊昌俊変え、頼朝に仕えたといわれます。
土佐坊昌俊の石碑が、鎌倉の宝戒寺の近くにあります。石碑には下記のように書かれています。
「(大意)土佐坊昌俊は、堀川の館にいる源義経を夜襲し逆に殺されました。頼朝が、義経を討つ者を募っていた時、皆辞退したい気持ちでいるところに昌俊が進んで引き受けたため頼朝は喜びました。出発間際に頼朝の御前で、年老いた母や幼い子供たちが下野国にいるのでもしもの時は情けをかけてやってほしいと申し上げ、もう帰ってこない悲壮な覚悟で門出しました。その屋敷跡です。」
八幡宮の金王桜
義経の母に義朝の死を知らせた金王丸(土佐坊昌俊)が、義経の刺客になっていくドラマ性が、語り継がれてきたのかもしれません。
金王桜は、頼朝が亀ヶ谷の館からこの地に移植
八幡宮に金王桜といわれる桜のの古木がありますが、義朝に仕えた渋谷金王丸をしのび、頼朝が金王丸の名を後世に残そうとして亀ヶ谷の館からこの地に移植したものだと案内には書かれています。
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