歴史探訪(36)徳川家康の宿泊所:藤沢御殿
歴史探訪(36)徳川家康の宿泊所:藤沢御殿は、藤沢市民病院の南、現在の、元藤沢公民館の辺りから妙善寺の辺りまでの間にあったといわれます。
歴史探訪(36)徳川家康の宿泊所:藤沢御殿は、藤沢市民病院の南、現在の、元藤沢公民館の辺りから妙善寺の辺りまでの間にあったといわれます。
歴史探訪(36)徳川家康の宿泊所:藤沢御殿
2023年2月28日 (itazu)
「相中留恩記略」の絵図(市民病院前掲示案内)
関東に国替えされた家康が視察の拠点として設置
小田原北条氏が豊臣秀吉に降伏し、徳川家康が関東に国替えされると、家康は、鷹狩りと称して関東各地を視察を始めますが、その休泊所として各地に御殿やお茶屋を設置しました。
江戸時代の藤沢宿の絵図の「御殿跡」(御殿橋案内図)
相模国内には御殿5か所、お茶屋4か所が設置されたといわれ、藤沢御殿もその一つで1596年頃設置されました。
後に宿駅の本陣などの宿泊設備が整えられると、これらは姿を消します。将軍専用の宿泊所
後に宿駅の本陣などの宿泊設備が整えられると、これらは姿を消します。将軍専用の宿泊所
御殿は、藤沢市民病院の南、現在の、元藤沢公民館の辺りから妙善寺の辺りまでの間にあったといわれます。
藤沢御殿跡推定範囲(御殿橋案内図より)
敷地は東西193メートル、南北113メートルの方形で、東に境川、北に白旗川にがあり、周囲に堀が廻らせてありました。南の表門から東海道とは約100メートル隔てていました。
敷地内には、将軍の泊まる場所があり、現在の日枝神社のあるところにありました。
下図参照↓
敷地内には、将軍の泊まる場所があり、現在の日枝神社のあるところにありました。
下図参照↓
藤沢市民病院と旧東海道の間にあったと推定されています。(Google MAP)
日枝神社
関ケ原の戦いの時にも利用
御殿は将軍専用の宿泊施設で、1600年の関ケ原の戦いの時、家康が、会津の上杉景勝を討つため伏見城を出発し、栃木県の小山まで行き、石田三成の挙兵を聞いて軍を返す往復に藤沢御殿に泊ったといわれます。
その後、2代将軍秀忠、三代家光と京都上洛、駿府樹往来、大阪冬の陣、夏の陣の往来のたびごとに、合わせて28回利用されたといわれます。
御殿は、隣接の代官陣と共に、幕府の地方農村に対する支配の拠点でした。
(参考資料:藤沢ーわがまちのあゆみー)
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 2023年2月28日