遊行寺にある中世武将の墓
歴史探訪(37) 遊行寺には、国の重要史跡「敵御方(てきみかた)供養塔」のほか、中世武将:南部茂時の墓や岩松満純の墓があります。
歴史探訪(37) 遊行寺には、国の重要史跡「敵御方(てきみかた)供養塔」のほか、中世武将:南部茂時の墓や岩松満純の墓があります。
遊行寺にある中世武将の墓:南部茂時、岩松満純
2023年3月21日 (itazu)
遊行寺には、国の重要史跡に指定されている「敵御方(てきみかた)供養塔」のほか、中世の武将:南部茂時の墓や岩松満純の墓があります。
中世の藤沢は戦乱続く
中世の藤沢は、特に、鎌倉幕府滅亡(1333年)から北条早雲が関東を支配するまで(1495年)の室町時代、左表のように、京都の将軍、鎌倉公方、関東管領、その家宰の利害関係が入り乱れ、戦乱が続き、遊行寺も何度も戦禍で焼失する混迷の時代でした。
遊行寺は念仏信仰の中心的な役割を担う
南部茂時の墓 案内板
遊行寺は、鎌倉幕府滅亡の数年前(1325年)に、吞海上人が開山し、藤沢、鎌倉における武士たちの念仏信仰の中心的な役割を担っていました。
鎌倉滅亡の動乱の時には、戦死者の弔い、処刑者の引導、負傷者の救援のために遊行僧が活躍したといわれます。(「藤沢と遊行寺」(藤沢市史ブックレット2))
太平記によれば、新田義貞の鎌倉攻めで、北条高時が、東勝寺で家臣約800人と共に切腹して果てていますが、その中に、南部茂時の名があります。
南部氏は、甲斐巨摩郡南部郷の地頭です。
鎌倉滅亡の動乱の時には、戦死者の弔い、処刑者の引導、負傷者の救援のために遊行僧が活躍したといわれます。(「藤沢と遊行寺」(藤沢市史ブックレット2))
太平記によれば、新田義貞の鎌倉攻めで、北条高時が、東勝寺で家臣約800人と共に切腹して果てていますが、その中に、南部茂時の名があります。
南部氏は、甲斐巨摩郡南部郷の地頭です。
南部茂時の墓
南部茂時の家臣たちが彼の遺骸を寺内に担ぎ込み、遊行上人に引導を願い、「正阿弥陀仏」の法号を授けてもらい、家臣6人もこの時、腹を切り、主君の墓側に葬られたといわれます。
鎌倉ではなくわざわざ藤沢の遊行寺まで運んできたのは、敵軍を避ける必要もありましたが、それよりも遊行上人は阿弥陀仏の代官であり、その上人から十念、名号を受ければ極楽往生できる信仰があったためといわれます。(前掲書)
尚、南部氏の子孫は後に徳川氏に仕え盛岡城主になっています。
鎌倉ではなくわざわざ藤沢の遊行寺まで運んできたのは、敵軍を避ける必要もありましたが、それよりも遊行上人は阿弥陀仏の代官であり、その上人から十念、名号を受ければ極楽往生できる信仰があったためといわれます。(前掲書)
尚、南部氏の子孫は後に徳川氏に仕え盛岡城主になっています。
「怨親(おんしん」平等=敵御方(てきみかた)供養」の考えは怨霊鎮魂・無害化の思想
鎌倉幕府滅亡から80年後の、関東地方の戦国時代の幕開けとなった上杉禅秀の乱(1416年)の時も同様で、多くの武将が戦死し遊行寺で自害しましたから、敵味方含めて戦死者に対する「供養塔」とともに、反乱軍の将士、岩松(新田)満純の鎮魂碑も建てられています。(岩松氏は、上野(群馬県)新田荘の地頭職)
これらも遊行上人への念仏信仰に支えられてのことです。
岩松満純の鎮魂碑(左)と敵御方供養塔(右)
敵味方区別することなく平等に慈しみ極楽往生を願うという「怨親(おんしん)平等=敵御方(てきみかた」供養」の考えは、仏教本来の博愛理念です。
特に、蒙古襲来の犠牲者の供養から、円覚寺開祖の無学祖元や夢想疎石など禅僧によって戦死者の怨念を打ち払うために広められ、中世の戦乱期の室町時代の怨霊鎮魂・無害化の思想として展開されていたものです。
特に、蒙古襲来の犠牲者の供養から、円覚寺開祖の無学祖元や夢想疎石など禅僧によって戦死者の怨念を打ち払うために広められ、中世の戦乱期の室町時代の怨霊鎮魂・無害化の思想として展開されていたものです。
この博愛思想を示す「敵御方(てきみかた)供養塔」は、遊行寺のほかにも、秀吉の朝鮮の役の時、高野山に建てられた(1599年)ものが有名です。
参考資料:「藤沢と遊行寺」(藤沢市史ブックレット2)、遊行寺および市教育員会案内板、「室町人の精神」(講談社)他
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 2023年3月19日