称名寺と金沢文庫
歴史探訪(38) 関東有数の学問寺といわれていた称名寺と金沢文庫を訪ねます。
歴史探訪(38) 関東有数の学問寺といわれていた称名寺と金沢文庫を訪ねます。
関東有数の学問寺:称名寺と金沢文庫
2023年4月13日 itazu)
称名寺と浄土式庭園
六浦は鎌倉の東隅
金沢文庫のある六浦は、鎌倉四隅(東西南北)の東隅にあたり、鎌倉時代は、鎌倉の一角とみなされていました。
北条泰時(やすとき)が、鎌倉と六浦を結ぶ朝比奈の切通しを拓き(1241年)、六浦は、海路を通して房総半島などと鎌倉の玄関口になっていました。
泰時は弟の実泰(さねやす)をここに配し、その実泰の子、北条(金沢)実時(さねとき)が金沢に別邸を置いたことが、称名寺と金沢文庫の前身となりました。
金沢文庫のある六浦は、鎌倉四隅(東西南北)の東隅にあたり、鎌倉時代は、鎌倉の一角とみなされていました。
北条泰時(やすとき)が、鎌倉と六浦を結ぶ朝比奈の切通しを拓き(1241年)、六浦は、海路を通して房総半島などと鎌倉の玄関口になっていました。
泰時は弟の実泰(さねやす)をここに配し、その実泰の子、北条(金沢)実時(さねとき)が金沢に別邸を置いたことが、称名寺と金沢文庫の前身となりました。
称名寺
称名寺は北条金沢一族の菩提寺
称名寺は、実時が1258年設けた阿弥陀堂(念仏寺)から始まり、その後、極楽寺の忍性の推薦により下野(しもつけ:栃木県)薬師寺の僧、審海を開山に招いて真言律宗の寺となりました。二代顕時(あきとき)が受け継ぎ、三代貞顕(さだあき)の時代に大規模な造営が行われました。金沢一族の菩提寺でもあります。
称名寺は、実時が1258年設けた阿弥陀堂(念仏寺)から始まり、その後、極楽寺の忍性の推薦により下野(しもつけ:栃木県)薬師寺の僧、審海を開山に招いて真言律宗の寺となりました。二代顕時(あきとき)が受け継ぎ、三代貞顕(さだあき)の時代に大規模な造営が行われました。金沢一族の菩提寺でもあります。
金沢文庫は初代実時の文庫が起源
金沢文庫は、初代実時が1275年ころ居館内に文庫を設けたのが起源で、政治、歴史、文学、仏教などの書籍などが収められていました。
実時は、幕府の中枢に身を置き、為政者の立場から学問や文化事業に取り組むようになり、文庫を創設したようです。三代貞顕は、積極的に和漢の貴重な典籍の蒐集を行い、金沢文庫本の大半は、実時の旧蔵書を核とし、貞顕が六波羅探題時代に京都で収集した書籍群で構成されるといわれます。
称名寺から文庫に至る隧道
称名寺は関東有数の学問寺として「金沢学校」と呼ばれる
1306年、称名寺造営料獲得のため元へ交易船(寺社造営料唐船)が派遣されています。
また、鎌倉時代の千葉寺、大日堂など、真言の古寺で書写された仏教関係の文書が多数残されて、東京湾の水運を使って、金沢と千葉の間を頻繁に往来していたことがわかります。
称名寺は関東有数の学問寺として「金沢学校」と呼ばれていました。
金沢文庫
室町時代、関東管領:上杉憲実が再興
貞顕の時、新田義貞の鎌倉攻めがあり、一族は途絶えます。
鎌倉幕府が滅んで以来、衰退していましたが、室町時代、関東管領、上杉憲実(1410-1466)が再興したといわれています。この上杉憲実は儒学の研究家でもあり、平安時代に造られたといわれる教育機関、足利学校を再興し、金沢文庫より一部、典籍を足利学校に移すなどしています。
戦国時代の末期には、後北条や豊臣秀次や徳川家康等が称名寺から「金沢文庫本」を大量に持ち出すなど流出の連続でしたが、江戸時代には、水戸藩、加賀藩が典籍を調査するようになり、保護されるようになりました。
参照資料:「金沢文庫の肖像」(金沢文庫:特別展)、境内案内板、ウィキペディア他)
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 2023年4月12日