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金沢八景に住んでいた吉田兼好

金沢八景に住んでいた吉田兼好

2023年7月6日  (itazu)
吉田兼好といえば、「徒然草」で著名な鎌倉時代から南北朝時代にかけての官人、歌人、随筆家です。兼好(本名:卜部(うらべ)兼好)は、京都・吉田神社の神職である卜部家に生まれ朝廷に仕えたと言われてきましたが、出自、経歴などはよくわからないままでした。

称名寺
徒然草や歌集には鎌倉の話題が多い

「徒然草」をはじめ兼好の歌集には、多くの鎌倉関係の記述があります。
◆徒然草の34段「金沢の浦に棲息するアカニシ貝への興味」、119段「鎌倉では鰹という魚を食べている」、215段「北条時頼の逸話」、184段「時頼の母、松下禅尼の質素倹約ぶり」など多くある鎌倉の話題。
◆兼好歌集にも、「武蔵の金沢」に住んでいたことや相模の国いたち川(栄区)などの記述。
◆武蔵風土記の「上行寺(金沢六浦、日蓮宗)の裏山に住んでいた」という伝承
◆「吉田兼好行状絵巻」の金沢八景を眺めている絵。などです。

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中世の金沢八景、上行寺の門前が船着き場でした。
(薄い青の領域は海でした。今は埋め立てられています。)
金沢八景の上行寺の境内の庵に住んでいた

これらについて、何らかの関係で、兼好は13世紀初頭に二度鎌倉に下り、金沢八景の上行寺の境内の庵に住み、鎌倉の世界を覗き、そこでの話を「徒然草」に書いたと指摘されてきました。(五味文彦「日本史の中の横浜」参照)
しかし、その後の研究で、
吉田神社の神職の根拠となる兼好に関する家系図が吉田神道の創始者、吉田兼倶による捏造ではないかという見解が出され(小川剛生著「兼好法師」)、兼好についての出自や経歴の見直しが行われてきました。


金沢文庫
兼好は、北条貞顕の被官として、鎌倉と京都を往来

金沢文庫に残された文書のさらなる解明で、
◆金沢文庫文書の中の「称名寺侍者、卜部兼好」という記述
◆金沢貞顕の家臣に兄(兼雄)がいたという伝承
◆三代金沢(北条)貞顕が京都の六波羅探題時代、貞顕やその子顕助と交遊があった
◆京都の貞顕に、称名寺長老の書状を携え、使者をしていたこと等が判明し、
兼好は、出家以前の若かりし頃、金沢氏の被官として過ごし、鎌倉と京都を往来していたことや、京都の六波羅探題時代の貞顕の関係を通して、朝廷での交際圏を作っていったことなどがわかってきました。
盛本昌弘「鎌倉武士と横浜」、金沢文庫特別展「兼好法師と徒然草」参照)


上行寺

上行寺と瀬戸神社とを訪ねる

兼好が鎌倉に住んでいたといわれる上行寺や六浦港の礎となった瀬戸神社を訪ね時代背景を探ってみました。
兼好が仕えた北条金沢三代貞顕の時代は、鎌倉時代末期で、貞顕は京都の六波羅探題に就任し、執権高時を補佐する連署にも就任し、金沢文庫の充実を図りましたが、鎌倉幕府滅亡(1333年)と共に自刃しています。
因みに「徒然草」は1331年頃成立しています。

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瀬戸神社
六浦は、頼朝が瀬戸神社を創建して以来、渡船場の津

鎌倉時代から六浦は、頼朝が瀬戸神社を創建して以来、渡船場の津として栄えてきました。
特に、三代執権北条泰時の時代に、朝比奈切通しができ、都市空間が広がり、利根川、荒川、入間川といった大河川によって東京湾につながる関東平野や対岸の房総半島の領地から年貢輸送船が陸揚げする港として繁栄しました。陸上での鎌倉街道と東京湾の水運は、鎌倉幕府にとって、重要なネットワークでした。
上行寺も山門入口が船着き場であったといわれ、鎌倉から京都へのアクセス、関東へ港として、時代の中心的な賑わいを感じられる場だったと思われます。
(金沢文庫「中世六浦の勃興」参照)

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