歴史探訪42:榛谷(はんがや)御厨と神明社(横浜:保土ヶ谷)
2023年9月4日 (ITAZU)
「保土ヶ谷」の名の由来とも言われる中世の横浜の荘園「榛谷(はんがや)御厨(みくりや)」と鎮守の神明社を訪ねます。
中世の藤沢、茅ヶ崎に、相模国最大の寄進型荘園、「大庭御厨(伊勢神宮領)」(1117年成立)がありましたが、そのころ、横浜の中心地、保土ヶ谷にも「榛谷(はんがや)御厨」(1122年成立)があり、伊勢神宮の分社として神明社が置かれていました。
榛谷(はんがや)は、保土ヶ谷(ほどがや)の名の由来ともいわれ、当時、六浦、神奈川の湊と共に、保土ヶ谷は、両者をつなぐ鎌倉街道下道の要所でした。
平安時代後期、武士団による荘園の開発が進められる
平安時代後期は、院政が始まり武士が胎動してきますが、相模、武蔵など関東においても武士団による荘園の開発が進められます。
中世の主な荘園には、藤沢の大庭御厨(おおばみくりや)、横浜の山内庄、六浦庄(三浦氏)、榛谷(はんがや)御厨などがありました。(左図参照)
これらは、関東一体に勢力を伸ばしてきた坂東八平氏が、武士団の基盤を作り、
相模国には、鎌倉軍団として、三浦、梶原、大庭、長尾氏などが、
武蔵国には、秩父平氏として、江戸氏・河越氏・河崎・渋谷・畠山氏・稲毛氏・榛谷(はんがや)氏などが進出、支配していました。
榛谷御厨は秩父平氏の榛谷(重朝)氏が支配
秩父平氏は、桓武平氏の平良文の子孫が武蔵権守(ごんのかみ)となり、秩父を本拠としていました。
武綱の時は、源義家の後三年合戦に従い武蔵国の最高責任者となり、以来、荒川、入間川、多摩川、鶴見川など川沿いに南下して武蔵国一帯を開発支配していきました。系図のように、一族が江戸、川崎、横浜、相模の主な地を支配していったことがわかります。
榛谷御厨とは、平安時代から室町時代にかけて、現在の横浜市の保土ケ谷区・旭区・都筑区一帯にあった伊勢神宮の荘園(御厨)で、帷子川水系を領域にしています。
榛谷という地名は、この地を開発した秩父平氏の榛谷(重朝)氏が、支配を任されたことに由来します。大庭御厨とほぼ同時期12世紀初の成立です。
榛谷(重朝)は頼朝の御家人で弓の達人
秩父一族は、源頼朝に帰伏して御家人となり、榛谷(重朝)も、頼朝の寝所を警備する役をし弓の達人として知られていました。
1205年、同族の畠山氏と北条氏との争いに巻き込まれ、榛谷氏は、兄、稲毛氏と共に、三浦氏に討たれ滅亡しました。
畠山重忠の乱の古戦場は、御厨内の二俣川にあります。
その後、御厨は鎌倉幕府に没収され、室町時代には南朝の支配となり、その後、北条早雲の坂東制覇により後北条一族に分与されて消滅しました。
古い由緒を誇る保土ヶ谷の神戸(こうど)の神明社
この榛谷(はんがや)御厨には、伊勢神宮の末社として神明社が勧請され、いくつか存在します。
中でも古い由緒を誇るのが保土ヶ谷の神戸(こうど)の神明社です。
帷子川沿いに、神戸(こうど)以外にも神明社が点在していて、榛谷重朝が管理する以前から同族の小山田一族が、荘園を安堵する伊勢神宮に「御厨」として寄進したと考えられています。
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参考資料:「鎌倉武士と横浜」(盛本昌弘著、有隣新書)、ウィキペヂア他
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