歴史探訪44:戦国時代の横浜の城:小机城と権現山城
2023年11月9日 (itazu)
今回は、関東における戦国乱戦開始の舞台となった横浜の小机城と権現山城を訪ねます。
関東における戦国乱戦開始の舞台となった小机城と権現山城
15世紀の関東は、戦国時代の魁ともいわれる鎌倉公方と関東管領上杉氏との闘い(1438年永享の乱)が始まっていました。
そのころ、小机城と権現山城は、上杉氏によって築かれました。
◆小机城は、横浜北部にあって、武蔵国への進出および鶴見川水運を生かせる拠点として、
◆権現山城は神奈川湊を支配する重要な拠点でした。
(当時は、上杉の家臣、矢野兵庫助が小机城および神奈川湊(「狩野河の城」)を支配。)
(左図)←小机城は、鶴見川を臨む、横浜線小机駅近くの小高い山の上にあります。「小机城址市民の森」となっています。
(左図)←権現山城は「狩野河の城」といわれ神奈川湊の近くにありました。(ピンク部分は当時は海)
(左図は、横浜市港湾局作成の横浜港変遷図を基に作成)
小机城は、長尾景春の乱で歴史上に登場。
小机城の名が歴史上に登場するのは、山内上杉氏の内乱:1476年の長尾景春の乱(家宰の家督相続めぐる長尾景春の反乱)の時に登場します。
景春に加勢した武蔵の豊嶋氏が、城主矢野氏とともに小机城に籠城し、それを、扇谷上杉の家宰、太田道灌が落城させ、景春の乱は終息します。
(太田道灌が、この時、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」という歌を詠んだという逸話が有名です。)
太田道灌死後、関東は戦乱の様相
景春の乱は、江戸城を拠点としていた太田道灌が、武蔵から相模へと支配を広げるきっかけになり、
関東を支配する勢いと名声を持ちますが、その勢いを恐れた主家(扇谷上杉定正)に暗殺されます。
これを機に、扇谷上杉に属する武士が山内上杉に走るなど両家の抗争が始まり、関東の武士は、ことあれば反旗を翻すような不安定な状況になってゆきます。
北条早雲の登場
そこで登場するのが、北条早雲で、すでに小田原を拠点としていて、相模、武蔵へと支配を伸ばそうと、上杉や相模国守護の三浦と抗争します。
当時権現山城の城主だった扇谷上杉家臣の上田政盛が、早雲に味方し謀反を起こしたことから権現山の戦いが起こりました。
結果は、上杉方の勝利で終わりましたが、その後、北条早雲は、巻き返し、南部の大船に玉縄城を築き、上杉、三浦を撃退し、更に北部の拠点として小机城を補強整備し、関東支配への足掛かりとしていきました。
遺構がほとんど残されていない
権現山城と小机城は、歴史的に重要な役割を果たした城ですが、現在は遺構がほとんど残っていません。
権現山城は幕末に土取り場となり、明治時代に鉄道の建設で開削されました。
小机城は徳川家康の関東入府で廃城となり、第三京浜道路や横浜線の建設で分断されました。しかし、地元の人々の努力で、「小机城址市民の森」として整備されています。
________________________
(参考資料:日本史の中の横浜(五味文彦著)横浜の戦国武士たち(下山治久著)ウィキペディア他)
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。☑ 2023年11月5日