歴史探訪45 後北条支配下の横浜の笹下城、蒔田城
2023年12月21日 (itazu)
今回は、戦国時代の後北条支配下の横浜の笹下(ささげ)城址、蒔田(まいた)城址を訪ねます。
関東における戦国の乱戦開始は、鎌倉公方と関東管領上杉氏の対立および上杉家抗争の混乱に乗じ、小田原を拠点に北条早雲が登場することから始まります。
北条早雲は横浜地域も支配下に治める
北条早雲は、三浦氏撃退のため南部の大船に玉縄城を築き、北部の拠点として小机城や青木城(神奈川湊の拠点)を補強整備し、上杉氏を北へと追い込んでゆきます。
更に、横浜の国人(地の豪族)、吉良氏、間宮氏、平子氏などを味方にすることに成功し、本牧、石川、根岸などの地域を勢力範囲に組み入れ、早雲の子 氏綱とともに、横浜地域も支配下に治めます。
房総の里見氏との対立と関東支配のネットワーク
また、江戸湾(東京湾)の対岸には、房総の里見氏が敵対する強大な勢力を持っていたため、後北条は
間宮氏に杉田の湊を守るため笹下城(洋光台)を、吉良氏に本牧の湊を守る蒔田城(蒔田)を築かせます。
小机城、青木城(権現山城)、玉縄城とともに笹下城、蒔田城を加え軍事上の重要なネットワークをつくり、後北条は相模国支配を拠点に関東支配を拡大してゆくことになります。
笹下城の間宮氏
笹下城は、洋光台の成就院あたりの高台にあり、玉縄城と連絡できた砦で、間宮氏一族が支配していました。後北条時代武功著しく、後北条滅亡のあとも家康にも評価され徳川家に仕えます。子孫は磯子区に陣屋を構え繁栄し、一族から、江戸後期、樺太探検の間宮林蔵や解体新書を出した杉田玄白が出ています。
(成就院裏の丘頂上一帯が笹下城の本丸とされ、その周辺に間宮氏の陣屋があり、成就院の山門は、その陣屋の山門を移築したものといわれています。写真左)
蒔田城の吉良氏
蒔田城は、現在の横浜英和学院が所在する大岡川の右岸の標高35mほどの台地にあったといわれ、武蔵世田谷とともに蒔田を領有した吉良氏の居城でした。
吉良氏は、足利将軍家の分家であったことから、後北条氏の支配下でも特異の位置にあったといわれます。隣接の龍祥山勝国寺は吉良氏の菩提寺とされています。
(ちなみに、忠臣蔵で有名な吉良氏は一門(武蔵世田谷)の出身です)
参考資料:「横浜の戦国武将たち」(下山治久著)、横浜市ホームページ、ウィキペディア他
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