歴史探訪46 横須賀の(三浦)安針塚を訪ねる
2024年1月25日 (itazu)
横須賀の(三浦)安針塚を訪ねます。
三浦按針は、英国人で本名は、ウィリアム・アダムス。徳川家康の信任を得て三浦郡逸見(へみ)村250石を与えられ、外交顧問として仕えたほか、砲術、造船術、航海術など西洋文明を伝えました。
今回訪ねたのは、京急逸見(へみ)駅から 按針の屋敷があったといわれる鹿島神社、北に隣接する按針の菩提寺:浄土寺、按針夫妻の墓がある塚山公園です。(左図参照)
アダムスは、シェイクスピアと同い年の1564年生まれ、極東へ遠征するオランダ船リーフデ号の乗り込み、嵐で漂流し1600年大分県臼杵(うすき)に漂着しました。
折しも、関ケ原の戦いで大勝し樹立したばかりの政権で、海外との貿易や交流を模索していた徳川家康に信任され外交顧問に任じられました。
江戸・日本橋に屋敷と三浦郡逸見(へみ)村に250石、更に三浦按針(羅針盤を扱うものという意味)の名をあたえられました。
写真上:按針の菩提寺:浄土寺
写真右は、按針の念持仏といわれる観音菩薩立像(境内の案内板)
右図は、江戸時代の江戸湾における物流・交通ですが、按針が与えられた知行地の三浦半島は、家康の江戸城を抱え込む江戸湾口に位置している海の要衝でした。
浦賀は、17世には、江戸湾に出入りする船荷改めが行われる物流交通の拠点となり、逸見(へみ)は、幕末には製鉄所(海軍基地)が設けられたように重要な軍事拠点となりました。
家康の三浦をゲートとする江戸湾の交通・物流、軍事に対する支配戦略の先見性と按針に対する期待の大きさがうかがえます。
江戸時代の江戸湾における物流・交通
(「図説横浜の歴史」に基づき作成)
1609年にオランダ船が平戸に来ると、按針は、オランダ商館の設立に尽力し、その後のオランダを中心とした幕府の海外戦略の方向付けに影響をあたえました。
アダムスは、家康の死後、秀忠時代は不遇で、日本で20年の歳月を過ごし、55歳の生涯を閉じました。
(参照資資料:歴史を歩く「深堀り神奈川」泉秀樹著、図説横浜の歴史(横浜市)、ウィキペディア他)
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