歴史探訪(47)「小栗判官・照手姫」伝説の時代背景
2024年2月23日 (itazu)
藤沢の遊行寺境内に長生院(ちょうしょういん)という小寺がありますが、照手姫ゆかりの寺として伝えられ、江戸時代には、小栗判官伝説の流布により有名となり藤沢宿にとって欠かせない史跡となり、今日まで続いています。長生院に残る伝小栗判官主従・照手姫墓域および小栗判官伝承関係資料一括が2023年11月藤沢市指定重要文化財に指定されています。
小栗判官の小栗氏は常陸の国(茨城県)の武士ですが、なぜ藤沢発信の伝説の主人公となっているのか。当時の関東の時代背景を見てみる必要があります。先ず伝説のあらすじを見てみましょう。
<伝説のあらすじ>
『常陸国の武士、小栗満重は、室町時代、関東を治めていた鎌倉公方、足利持氏に謀反の疑いをかけられ攻め落とされた。満重は、三河国へ落ちのび、その途中で相模国の郷士横山大膳の館(俣野)にとどまり、満重は妓女の照手姫と親しくなり夫婦になる約束をした。横山は、酒盛りで毒入りの酒を勧め、満重と家来たちを毒殺し上野原に捨てた。しかし、満重だけは、虫の息ながら生きており、遊行寺の大空(たいくう)上人の手厚い看病を受け、熊野に送られ温泉で体を治した。体が元に戻った満重は、一族の住む三河に行き、力を借りて京都の幕府に訴え、常陸の領地を与えられ判官の位をさずけられた。常陸に帰った満重は、兵をひきいて横山大膳を討つと、遊行寺に詣り、上人にお礼するとともに、亡くなった家来達の菩提をとむらった。
一方、横山から逃げ出した照手姫は、追手につかまり人買いに売りとばされ、美濃の青墓(現大垣市)で下女として働いていたが、満重に救い出され、二人はようやく夫婦になれた。
満重が亡くなると子の助重が領地を継ぎ、鎌倉に来た折に、遊行寺に参り、満重の墓を建て、照手姫も仏門にはいり、遊行寺内に長生院(1429年)を建てた。』(藤沢市教育文化センタ「教育アーカイブ」参照)
というものです。
<伝説のなかの史実>
伝説の中で史実に相当することは
(1)小栗城主の満重は、上杉禅秀の乱で禅秀方に味方し敗北し、その後、満重は持氏に反抗(小栗満重の乱)したが持氏によって小栗城は遂に陥落し、満重は自殺したこと。
(2)その子助重はひそかに一族の領地のある三河国に逃れ、その後、助重は持氏の子、成氏に対抗して戦功(結城合戦)をあげ領地を復したが再び落城。
ということだけで、その他の横山氏に毒殺されたことや遊行上人に助けられたこと、照手姫などは、伝説ということになります。
注)(ウィキペディアによれば)その後、助重は出家し将軍義政の御用絵師、画僧宗湛となったと書かれています。
<当時の時代背景>
京都将軍家と鎌倉公方との対立し関東の主だった武将が両勢力に分かれ戦乱
室町時代の当時の関東は、3代将軍義満死後、京都将軍家(4代義持)と鎌倉公方(持氏)との対立に関東管領上杉家の内紛などが絡み、1416年鎌倉公方(持氏)に対する関東管領上杉禅秀の乱がおき、関東の主だった武将が、鎌倉公方、禅秀方に分かれ戦乱となりました。この時、京都将軍は、鎌倉公方側を援助し禅秀の乱は終息しましたが、その後、持氏の京都への反抗が続いたためその勢力拡大をけん制するため、京都将軍は、関東の有力武士との直接主従関係を結び「京都扶持衆」を作ったため、ますます両勢力の争いは関東全体に激化していきました。
小栗家の再興が悲願
「京都扶持衆」の勢力下にあった小栗満重は、再び持氏に反旗を翻しますが、制圧され没落してしまいました。小栗家としては、子の助重によって京都側からの支援をえて家を再興することが悲願だったと考えられます。
遊行寺は、俗界の力が及ばぬ避難所
伝説で小栗の命を救う重要な役割を演ずる遊行上人や時宗についてですが、
中世の時宗の僧は、敵味方関係なく武士と共に戦場へ赴き、臨終の念仏を勧めたり菩提を弔ったりする陣僧として活躍しており、念仏を介して武士との関係が深く、遊行寺は、俗界の力の及ばぬ避難所(アジール)の役割を担っていました。上杉禅秀の乱の時も、遊行寺には敵味方区別することなく極楽往生を願う「怨親平等=敵御方供養塔」が、小栗判官の伝説にも出てくる大空上人によって建てられ、関東の多くの武将の名が刻まれ供養されています。
<伝説の形成>
伝説の中で、史実は確かではないものの、下記の諸点は、ありえたこととも考えられ、小栗親子をモデルとした伝説の素材となっていったのだろうと推測されます。
◆小栗氏も、毒殺しようとした横山氏も、頼朝時代以来、関東武士の有力な一族であり、小栗助重が三河に逃れるとき鎌倉街道経由で旧知のあった横山氏(俣野辺)を訪ねたこと。
◆俣野辺が遊行寺の地元であり、遊行上人との出会いがあったこと。
◆鎌倉化粧坂に遊女がいたことが伝えられるように鎌倉街道筋での遊女との出会い、など。
注)<小栗判官伝説の成立考>服部清道氏論稿「わが住む里十」参照
藤沢上人の聖徳の喧伝に伝説が用いられる
小栗伝説の原形は、すでに戦国時代初期の「鎌倉大草紙」(室町時代の関東の歴史を記した軍記物)には載せられており、そこには、すでに、時宗の大空(たいくう)上人が登場していることから、小栗家復興を遊行上人の助けで果たす満重への鎮魂のための英雄壇として、この伝説の形成に時宗たちが深くかかわり、藤沢上人の聖徳の喧伝と時宗の布教のためにこの伝説が用いられ、やがて説教節として芸能化していったと考えられます。
注)「藤沢の戦戦国時代」真鍋淳哉(藤沢市文書館)参照
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