歴史探訪48:東国の貿易港だった「鎖国以前の浦賀湊 」
2024年4月5日 (itazu)
江戸時代、鎖国以前に、東国の唯一の貿易港となっていた浦賀湊と、江戸湾の船手頭:向井氏ゆかりの史跡を訪ねました。
*向井正綱、忠勝は江戸湾の船舶の管理と海上運輸を掌っていた旗本で幕府の船奉行(船手頭)
家康がイスパニアとの貿易を、江戸に近い浦賀で開始すること強く希望
徳川家康が浦賀を開港してフィリピンやメキシコとの貿易計画を持ったのは、豊臣秀吉が亡くなった直後の1599年といわれます。当時、家康は、西国にあった長崎と平戸のような貿易港を関東にも作り、イスパニアとの貿易を江戸に近い浦賀で開始することを強く希望していました。
三浦按針に洋式帆船を建造させる
1600年豊後に漂着したオランダ船リーフデ号のウィリアム アダムス(三浦按針)を外交顧問として重用し、浦賀に近い横須賀の逸見に領地を与えたのも、浦賀にイスパニアの船を寄港させ、開港させるためだったといわれます。
アダムスに伊豆伊東で120トン級の洋式帆船を建造させたのもメキシコとの交易をしようとするもので、実際にメキシコに商人など日本人20余名を載せて向かっています。
←(左図)浦賀湊のほか、走水や三崎にも船番所があり、船の出入りが管理されていた。(三崎の見桃寺には、向井正綱の墓がある。)
貿易振興策に、旗本で船手頭だった向井正綱、忠勝親子が活躍
この一連の家康の貿易振興策に、旗本で船手頭だった向井正綱、忠勝親子が、活躍しています。
向井氏は、武田水軍の属していましたが、武田滅亡後、徳川家康にに所望され、徳川水軍を強固にした一族で、北条の小田原攻めなどで貢献し、家康の厚い信任を得ていました。
室町時代後期から江戸初期まで広く用いられていた大型軍艦、安宅(あたけ)船の建造や操縦に習熟しており、アダムスのリーフデ号の修理や新たな建造にも関わっていました。
1606年イスパニアの商船が浦賀に入港して以来、浦賀の船手頭だった向井忠勝が、幕府の船舶と港湾を管理し、イスパニア人とも接触を持ち、貿易業務にも携わっていました。
遣欧使節船(支倉常長)にも家臣10人ほどを乗船
また、1613年仙台の伊達政宗がメキシコに派遣する船の造船にも船大工を送るとともに、遣欧使節船(支倉常長)にも忠勝の家臣10人ほどを乗船させ、貿易を行っています。
対外政策の転換で浦賀は貿易港としては中断
1616年家康死後、対外政策の転換で、平戸、長崎以外寄港が禁じられ、浦賀は貿易港として終わりますが、1720年江戸出入り船舶の積載貨物の検査をする浦賀奉行の開設によってふたたび港湾として蘇ります。
秀吉と異なる家康のグローバル戦略
家康の死までの短い期間だったとはいえ、向井氏のように、幕臣でしかも関東にいて貿易活動を行っていたことは、日本の江戸時代に、貿易で開かれた世界をつくろうとした時代があったことになり、江戸を中心とした家康のグローバルな国つくりの夢を感じます。
ペリーが開国を迫る浦賀沖の黒船来航は、250年後の1853年のことです。
因みに、向井正勝の一族は、「向井将監(しょうげん)」と呼ばれ、鎖国後も世襲が認められ、江戸防衛の船手頭として将軍家に仕え、黒船到来後は、1862年勝海舟の前任者として頭取をつとめています。
(参照資料:「史料が語る神奈川の歴史60話」遠山茂樹、「横須賀人物往来」横須賀市、ウイキペディア他)
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