歴史探訪49:佐竹氏屋敷跡のある鎌倉の大宝寺を訪ねる
2024年4月23日 (itazu)
大宝寺は、鎌倉の大町の、妙法寺、安国論寺など日蓮宗の寺が多い一帯にある、日蓮宗の寺ですが、鎌倉幕府の御家人として活躍し、江戸時代まで有力大名だった佐竹氏の歴史と深い関りがあります。
佐竹氏は源氏800年の北関東(常陸)の雄
佐竹氏は、清和源氏の八幡太郎義家の弟の、義光(新羅三郎)を祖とし、その孫である昌義が、常陸国久慈郡佐竹郷に土着し、常陸奥七郷の豪族として常陸国を支配していました。
平安時代末は、平家に属し源頼朝に抵抗していましたが、後に頼朝に従って奥州合戦に加わり武功をあげたため御家人になり、かつて祖、義光が館を構えていたとされるこの地を与えられ、代々の佐竹氏の居館となっていました。
(佐竹氏は、当初、「多福寺」として建立しましたが、後年、日蓮宗の「多福山大宝寺」と改名されました。)
鎌倉幕府滅亡後は北朝方の足利氏に属して常陸守護職に補任され、鎌倉府(鎌倉公方)の重鎮として活躍し、戦国時代は、「中興の祖」義舜(よしきよ)と4代後の「鬼義重」の異名をとる義重によって、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させました。
戦国時代の佐竹氏は、藤沢の遊行寺とかかわりがありました
遊行寺は、1513年に北条氏と三浦氏との合戦で焼失し、領地は玉縄北条氏の管轄となり、藤沢上人と本尊は各地を長い間、流浪することになりました。
この間、旧領の返還を求めましたが、北条から疎んじられ返還されず再建が難しかったため、佐竹氏の一門出身である遊行32代の他阿普光は、佐竹義宣(義重の子)の支援を受けて1591年水戸の地に藤沢道場(後の藤沢山神応寺:じんのうじ)を建立し、短い間、遊行派本山となりました。当時、佐竹氏はと北条氏とは敵対関係にありました。
遊行寺再興で、藤沢は門前町から宿場町へ
その後、家康が関東に府入してからは、家康の支援により1633年、現在の藤沢の地に遊行寺は再興されました。この家康による再興により、藤沢は門前町から宿場町へと蘇ります。
1600年、義宣は関ヶ原の戦いにおいて、上杉氏の動きを警戒して在国のまま観望するという中立的な態度を取ったため、この佐竹の二股膏薬的な態度と水戸を中心に強力な勢力を持つことを嫌った家康は、戦後処理で突然国替えを命じ、秋田・仙北へと転封しました。
この国替えによって、先述の、他阿普光の神応寺を遊行派本山とする選択肢は消失しました。現在も茨城県には時宗の寺が多いそうです。佐竹氏は、江戸時代を通じて久保田藩(秋田藩)を支配する外様大名として存続しました。
源氏800年の北関東の雄といわれた佐竹氏の歴史的痕跡が、鎌倉の大宝寺、藤沢の遊行寺に刻まれていました。
参照資料:藤沢市史ブックレット(2)「藤沢と遊行寺」、同左(12)「藤沢の戦国時代」、ウィキペディ他
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