もうすぐ七夕祭り
2024年7月3日(取材・記事:gantyan)
第二次世界大戦中、平塚市には海軍火薬廠(火薬製造工場)がありました。火薬工場は明治時代からあったのです。海軍火薬廠は昭和20年7月の米軍による大空襲で、焼野原となってしまいました。その後、昭和25年7月に市民により、復興まつりが開催されました。平塚商工会議所、および、平塚市商店街連合会が中心となって、仙台市の仙台七夕まつりを模範とした第1回「平塚七夕まつり」が昭和26年7月に行われました。昭和27年と昭和28年には「平塚七夕音頭」が発表されました。回数を重ねるごとに規模が拡大していきました。昭和32年の第7回平塚七夕まつりからは、当時の市長の戸川貞雄の方針によって平塚市の主催となりました。
今回は、懐かしい写真と準備風景を掲載します。


それとミス・フロリダの方だったかと思います。
カメラも、まだまだカラー時代ではありませんでした。
色は想像するしかありませんね。
サングラスをかけたりして粋がっていた人もいますね。
町の角には、傷痍軍人の方がアコーディオンを弾きながら立っていた時代です。
もちろん、今と同じように平塚の七夕祭りの頃は梅雨も明けていないことが多く、雨が多かったのです。でも、雨が止むとやっぱり凄く暑かったのです。



次は、準備風景をお目にかけます。
七夕まつりの準備は、6月下旬から始まります。


これは太い竹の棒を突き刺す窪みの蓋です。


そうそう、荒川静香さんでした。
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。☑ 2024年7月3日