歴史探訪51:いたち(㹨)川を訪ねるー横浜市栄区
2024年7月23日 (itazu)
大船駅から少し戸塚寄りの根岸線が分離するあたりで、柏尾川に注ぎ込む「いたち川」という珍しい名前の川があります。
鎌倉時代、交通上、軍事戦略上の要所
横浜市栄区の広報によれば
いたち川の名前の由来は、「イデタチ川」から変わったと考えられています。
鎌倉時代、鎌倉街道が通るこの地は、幕府にとって交通上、 また軍事戦略上の要所であり、小菅ヶ谷付近には宿駅もあったようです。
出で立ち川とは、「いざ出立」と鎌倉街道を下っていく際に、安全を祈る出発の儀式に由来するようです。
(鎌倉時代には霊所と考えられていて、『吾妻鏡』に度々「㹨河」でお祓いをしたと記述されている。ー「ウィキペディア」による)
鎌倉街道の中道、上道、下道いずれにも通ずる分岐点
室町時代の「鎌倉年中行事」にも、関東公方が武蔵方面の 征討に出かけるとき、吉例によって「いたち川の宿」で昼食をとり、これからの安全を祈るということが書かれており、鎌倉時代からの慣例として永く続いていたようです。
古都鎌倉の北の境にあり、笠間十字路付近は、現在も、鎌倉街道の中道、上道、下道いずれにも通ずる分岐点にあります。
吉田兼好が読んだ「いたち川」の歌
“徒然草”で有名な吉田兼好は、六浦からこのいたち川経由で京に上る時、「いかにして 立(た)ちにし日より ちりのきて 風(かぜ)だに閨(ねや)を はらはざるらん」と、 「いたちかわ」の名を歌に詠み込んでいます
(訳:私が旅に出てからだいぶ日がたったけれど私の寝室にもさぞかし埃りが積っているだろうな風が吹き払ってくれることもないだろうし)
なお、更科日記の作者である菅原孝標の女、親鸞、一遍などもこの川岸を通ったことが推察されています。(「本郷の民話と伝説」栄区役所)より
<参考>現在のいたち川
「いたち川プロムナード」
歴史の話題とは別に、現在のいたち川は、昭和57年ころから、都市化対策として護岸の整備とともに河川内に河原を再現する事業が行われ、都市部における多自然川づくりの草分けとして、自然に恵まれたプロムナードがつくられています。
この取り組みにより、土木学会デザイン賞、国土交通省手づくり郷土賞など受賞しています。
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