歴史探訪53:鎌倉 比企谷(ひきがやつ)の妙本寺を訪ねる
2024年9月16日 (itazu)
鎌倉時代、比企能員(よしかず)一族が住んでいた谷戸(やと)にある日蓮宗最古の寺:妙本寺を訪ねました。
鎌倉駅から近い距離にありながら、境内は広大で森閑としており、鎌倉でも有数の規模を誇る寺院です。
比企一族は北条氏と対立し滅ぼされる
比企一族は、源頼朝の乳母を務めた一族で、党首比企能員は頼朝の右腕として活躍した武将でした。比企能員夫妻は、2代将軍 頼家の乳母を務め、更に、娘の若狭局は頼家の側室として嫡男を授かりました。しかし、3代将軍をめぐり北条時政と対立し1203年一族は滅ぼされました。(比企の乱)
比企の乱で生き延びた能本
比企の乱の時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが能員の子、比企能本(よしもと)でした。生き残った能本は、出家し、都で順徳天皇(注★)に仕え、承久の乱後に順徳天皇の佐渡島配流に同行しました。のちに四代将軍藤原頼経の御台所となった姪の竹御所の計らいによって、鎌倉に戻ったといわれます。
能本が日蓮に帰依し屋敷を献上
能本は、鎌倉の町に立って生命がけの布教をしている日蓮聖人に出会い、「わが一族の菩提を弔って下さるのは、このお聖人しかいない!」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりだそうです。日蓮聖人は、1260年比企能本の父・能員と母に「長興」「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けました。(本寺のホームページ参照)
この妙本寺創建の1260年は、日蓮が「立正安国論」を著して北条時宗に献進したことで、念仏宗の怒りを買い、松葉ケ谷の草庵が放火された法難の年でもあります。
鎌倉の大町には、日蓮宗の寺院が多く、妙本寺のほか隣接の本覚寺、妙法寺は日蓮宗鎌倉三ヶ寺と称されてきました。また、日蓮宗最古の妙本寺と日蓮が入滅した大本山の池上本門寺(東京都大田区)は、一人の貫首によって両山が統括されてきました。
以下、妙本寺と隣接する日蓮宗の寺、本覚寺と常栄寺(ぼたもち寺)を訪ねました。
妙本寺から滑川の夷堂橋をわたると本覚寺の山門に至り、山門を潜ると夷堂があります。夷堂とは、日蓮が佐渡に配流された後、鎌倉に帰り滞在したところで、ここから身延山へ旅立ちました。本覚寺は、「東身延」とも呼ばれます。
幕府にとらわれた日蓮が、鎌倉の町を引き回され龍口の刑場に送られる途中、ここに住む老婆がぼたもちを差し上げたといわれる。日蓮は奇蹟によって処刑を免れますが、法難のあった9月12日は厄除けの「ぼたもち」が振舞われます。
(注★)順徳天皇は、、幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって王朝時代の有職故実研究に傾倒し、『禁秘抄(きんぴしょう)』を著しています。これは天皇自身に関わる有職作法の希少な書物として、江戸時代、家康が定めた「禁中並公家諸法度」のベースとなっています。
(参照資料:妙本寺ホームページ、「鎌倉の寺社122を歩く」(PHP新書)、ウイキペディア他)
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