続・湘南のお地蔵さま 19小田原駅東口から二十分程、御幸(みゆき)の浜近くの徳常院にはもう一体悲劇の皇族を供養するお地蔵さまが安置される。寛子(ひろこ)地蔵という。
続・湘南のお地蔵さま(19)『寛子地蔵』
2018年7月1日 (記事:江ノ電沿線新聞 7月号 )
『寛子地蔵』小田原市 本町 中島淳一
小田原駅東口から二十分程、御幸(みゆき)の浜近くの徳常院は以前「吉三地蔵」で登場した寺だが、ここにはもう一体悲劇の皇族を供養するお地蔵さまが安置される。その名を寛子(ひろこ)地蔵という。
寛子女王は江戸時代から続く四親王家のひとつ閑院宮(かんいんのみや)六代載仁(ことひと)親王の第四女王で、閑院宮家は小田原駅近くの天神山に明治三十九年から大きな別邸を持ち、家族で度々訪れていたが関東大震災にもここで遭遇し、女王は十七歳の若さで亡くなった。
この寛子地蔵は大震災から二十五年目にあたる昭和二十三年九月一日に、女王の兄七代春仁(はるひと)王(戦後皇籍を離脱し、元別邸であった敷地内の私邸に住んだ)が女王の供養のために遭難の地に建立した。春仁氏の死後、安住の地を求めていた寛子地蔵だが、偶然にも春仁氏と徳常院の先代の住職が地元の小田原中学校(現小田原高校)時代の同級生だった縁で、この寺に祀られることになったようである。青少年期の春仁王は健康上の理由から大正二年から十年までを小田原で過ごした。
境内の一画で上品な微笑みを浮かべる寛子地蔵。今は天国で、仲良しだった兄と一緒に小田原の美しい海を眺めていることだろう。(寛子地蔵は境内左手の石仏群前列右から二番目に安置される)
寛子女王は江戸時代から続く四親王家のひとつ閑院宮(かんいんのみや)六代載仁(ことひと)親王の第四女王で、閑院宮家は小田原駅近くの天神山に明治三十九年から大きな別邸を持ち、家族で度々訪れていたが関東大震災にもここで遭遇し、女王は十七歳の若さで亡くなった。
この寛子地蔵は大震災から二十五年目にあたる昭和二十三年九月一日に、女王の兄七代春仁(はるひと)王(戦後皇籍を離脱し、元別邸であった敷地内の私邸に住んだ)が女王の供養のために遭難の地に建立した。春仁氏の死後、安住の地を求めていた寛子地蔵だが、偶然にも春仁氏と徳常院の先代の住職が地元の小田原中学校(現小田原高校)時代の同級生だった縁で、この寺に祀られることになったようである。青少年期の春仁王は健康上の理由から大正二年から十年までを小田原で過ごした。
境内の一画で上品な微笑みを浮かべる寛子地蔵。今は天国で、仲良しだった兄と一緒に小田原の美しい海を眺めていることだろう。(寛子地蔵は境内左手の石仏群前列右から二番目に安置される)
2018年7月4日