小田原酒匂川花火大会小田原酒匂川花火大会が8月4日(土)19時10分から20時まで開催されました。
小田原酒匂川花火大会
&【番外編】第30回神明の花火大会
2018年8月12日 (hayatine)
小田原酒匂川花火大会が8月4日(土)19時10分から20時まで開催されました。50分間に約1万発の花火が打上げられるとあって、酒匂川の河川敷には大勢の観客が訪れました。幸い天候にも恵まれ絶好の花火日和でした。例年20万人もの人が集まるそうですが、広い河川敷には十分な余裕がありました。花火のフィナーレには小田原大橋に沿って、幅300m、高さ30mのナイアガラの仕掛け花火が酒匂川を横断して掛かり見事でした。
酒匂川の土手の上から撮影しました。右下の灯りは屋台です。
花火大会の最後は300mのナイアガラです。
手前の小田原大橋がくっきりと浮かび上がりました。
【番外編】第30回神明の花火大会
第30回神明の花火大会が8月7日(火)19時15分から21時まで、山梨県市川三郷町で開催されました。打上げ地点の笛吹川河畔には例年20万人の観客が集まり約2万発も打ち上げる花火を堪能しました。今回の花火大会では2尺玉(約500mまで上昇し、直径約500mに開花する)が6発打ち上げられ、また尺玉等特大スターマインも多数打ち上げられました。台風12号が接近していて、開催が心配されましたが幸い天候にも恵まれ良い条件のなかで開催されました。動画は次の文字をクリックしてください。(YouTube)
①神明の花火大会30周年記念特別プログラム
https://youtu.be/IF4qGRRdmx8
②第30回神明の花火大会テーマファイアー
https://youtu.be/ls8cN7AhofQ
開始直後のオープニング花火
オープニングの後、最初の2尺玉が空高く上がりました。
スターマインが高く上がりました。
3発目の2尺玉 画面に入りきれません。
【神明の花火の歴史】
甲州市川の花火は、武田氏時代の「のろし」に始まるといわれています。武田氏滅亡後、徳川家康は信玄のすぐれた技術を積極的に取り入れました。市川の花火師たちも徳川御三家に仕え、花火づくりに専念したといわれています。また「神明の花火」は、同じ地場産業である和紙に深いつながりがあります。平安時代、まだ山梨が甲斐の国だったころ…、源義清(甲斐源氏の祖・新羅三郎義光の子)が甲斐の「平塩の岡」(現在の市川三郷町内)に赴任し、館をかまえました。その時に京都から紙漉き名人の甚左衛門が従ってやってきました。甚左衛門は、美しい紙を漉く技術を市川の地に伝え、人々の暮らしを豊かにしてくれました。後になり、和紙に対する功績を称え、甚左衛門を神明社(紙の神様をまつる社)にまつりました。そして命日にあたる7月20日を神明社の祭りの日と定め、盛大に花火を打ち上げました。これが「神明の花火」のはじまりと言われています。
甲州市川の花火は、武田氏時代の「のろし」に始まるといわれています。武田氏滅亡後、徳川家康は信玄のすぐれた技術を積極的に取り入れました。市川の花火師たちも徳川御三家に仕え、花火づくりに専念したといわれています。また「神明の花火」は、同じ地場産業である和紙に深いつながりがあります。平安時代、まだ山梨が甲斐の国だったころ…、源義清(甲斐源氏の祖・新羅三郎義光の子)が甲斐の「平塩の岡」(現在の市川三郷町内)に赴任し、館をかまえました。その時に京都から紙漉き名人の甚左衛門が従ってやってきました。甚左衛門は、美しい紙を漉く技術を市川の地に伝え、人々の暮らしを豊かにしてくれました。後になり、和紙に対する功績を称え、甚左衛門を神明社(紙の神様をまつる社)にまつりました。そして命日にあたる7月20日を神明社の祭りの日と定め、盛大に花火を打ち上げました。これが「神明の花火」のはじまりと言われています。
神明の花火は江戸時代の元禄・享保(1688~1736年)頃から、いっそう盛んになり日本三大花火の一つとされ、賑わいました。「七月おいで盆過ぎて 市川の花火の場所であい(愛・会い)やしょ」とうたわれ、恋人たちの出会いの場としても親しまれてきたそうです。市川で一緒に花火を見ると幸せになれると言い伝えられています。いつしか神明の花火の歴史も途絶えてしましましたが、時を超え平成元年8月7日、神明の花火は山梨県下で最大の規模をほこり現在によみがえりました。2万発の大輪の花が夜空を彩り、受け継がれてきた伝統が雄大に輝き続けています。
以上 神明の花火大会ホームページより引用しました。
神明の花火大会ホームページ
http://www.town.ichikawamisato.yamanashi.jp/shinmei/index.html
2018年8月13日