藤沢市の一里塚跡(歴史探訪番外編2/4)藤沢市の一里塚跡は2か所あります。江戸から数えて12里目の一里塚跡が遊行寺坂、13里目が辻堂の四ツ谷一里塚跡です。
藤沢市の一里塚跡(歴史散歩はいかがですか)
2019年10月29日 (itazu)
藤沢市の一里塚跡は2か所あります。江戸から数えて12里目の一里塚跡が遊行寺坂、13里目が辻堂の四ツ谷一里塚跡です。(下記地図参照)(ちなみに、11里は原宿、14里は茅ケ崎になります。参照:ウィキペディア)
四ツ谷の一里塚跡 遊行寺坂の一里塚跡の立札
遊行寺坂の一里塚については、藤沢宿の入口としてよく知られていますが、四ツ谷一里塚についてはあまりよく知られていません。跡地には、「一里塚跡」の柱があるだけで、説明の立札はありません。
◆10月27日(日)まで藤澤浮世絵館で「江の島を訪れたエトランジェ 描かれた異邦人」が開催されていました。その中で、オランダ使節に同行して見聞記『日本誌』を著した医師で植物学者のエンゲルベルト・ケンペルの「日本誌オランダ語第二版ファクシミリ版」と藤沢に関連する箇所の日本語訳、ケンペルの描いた挿絵などが展示されていました。
藤澤浮世絵館ケンペル関連の展示(右はケンペルの書いた東海道道中図)
そこに、ケンペルの書いた東海道道中図とともに「日本誌」の中に四ツ谷についての記述がありました。
「四ツ谷という大きな村に達した」「四ツ谷の先一里にある藤沢で、われわれは昼食をする宿舎に立ち寄ったが。。。」
と書かれていて、この四ツ谷が藤沢の一里手前であったことが知られていたことがわかります。
ケンペルの「日本誌」は、18世紀のヨーロッパでは日本に関する知識の典拠になっていてのちのジャポニズムにつながる影響力のあるものでした。(展示説明参照)
「四ツ谷という大きな村に達した」「四ツ谷の先一里にある藤沢で、われわれは昼食をする宿舎に立ち寄ったが。。。」
と書かれていて、この四ツ谷が藤沢の一里手前であったことが知られていたことがわかります。
ケンペルの「日本誌」は、18世紀のヨーロッパでは日本に関する知識の典拠になっていてのちのジャポニズムにつながる影響力のあるものでした。(展示説明参照)
大山道入口である四ツ谷不動と立て札
◆四ツ谷には、この一里塚の近くに、大山道入口である四ツ谷不動があります。江戸時代、東海道と大山道が交差する四ツ谷辻に建てられていた道標である。
四ツ谷から藤沢までには、途中、国指定重要文化財:木造薬師如来座像のある養命寺があり、「もうすぐ藤沢宿だ」などといって大山詣での帰り道を歩いた江戸時代の旅人になった気分を味わってみてはいかがでしょうか。
四ツ谷から藤沢までには、途中、国指定重要文化財:木造薬師如来座像のある養命寺があり、「もうすぐ藤沢宿だ」などといって大山詣での帰り道を歩いた江戸時代の旅人になった気分を味わってみてはいかがでしょうか。
養命寺と国指定重要文化財:木造薬師如来座像の説明立札
引地川を渡ってしばらくすると、藤沢宿に入り白旗神社が見えてきます。
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 2019年10月27日