戦国・江戸時代の遊行上人(歴史探訪番外編1/4)中世後期から近世の時宗の活動を象徴する史跡が二つ、遊行寺境内に残されています。
戦国・江戸時代の遊行上人
2020年6月5日 (itazu)
中世後期から近世の時宗の活動を象徴する史跡が二つ、遊行寺境内に残されています。
宇賀神殿(遊行寺)
①中世の陣僧としての活動を象徴する「藤沢敵御方(てきみかた)供養塔」
②江戸時代の幕府との関係を象徴する「宇賀神」
これらは、時宗の歴史において重要な意味を持っています。
②江戸時代の幕府との関係を象徴する「宇賀神」
これらは、時宗の歴史において重要な意味を持っています。
◆時宗の歴史
時宗は、日本浄土教の一派で、阿弥陀経を拠り所に、遊行しながら賦算(お札を配る)をすることを基本活動としていますが、その歴史は、下表のように大別できます。
時宗は、日本浄土教の一派で、阿弥陀経を拠り所に、遊行しながら賦算(お札を配る)をすることを基本活動としていますが、その歴史は、下表のように大別できます。
歴代上人の墓
時宗は、宗祖一遍没後、4代「呑海上人」が藤沢道場を拠点とした時宗遊行派を確立して以来、組織的な活動が始まります。遊行上人と隠居した藤沢上人の二人体制で、他の宗派にはない独特の遊行活動を推進しました。
①「藤沢敵御方供養塔」 :怨親(おんしん)平等の思想
中世後期の時宗は、俗界の身分や社会的地位を取り払った遁世の時衆僧として、世俗から比較的自由な独特な宗教活動を展開していました。「太平記」などで語られるように、時衆の遊行僧は、戦場においては、陣僧(じんそう:武士に従い医者および弔い僧として戦場に供をする)として、また平時においても、連歌など娯楽や諸芸に従事する阿弥衆(同朋衆とも呼ばれ、能阿弥、善阿弥など阿弥号を名乗る)として活躍する人が多く、武士の生活と密接に関わってきました。
藤沢敵御方供養塔
「藤沢敵御方(てきみかた)供養塔」は、戦国時代に、敵味方を一緒に供養した石碑です。
陣僧として,怨親(おんしん)平等( 敵味方の差別なく絶対平等の慈悲の心で接する)の思想を貫き、戦時の武士社会に仏僧としての社会的役割を演じてきた事例といえます。
陣僧として,怨親(おんしん)平等( 敵味方の差別なく絶対平等の慈悲の心で接する)の思想を貫き、戦時の武士社会に仏僧としての社会的役割を演じてきた事例といえます。
②「宇賀神」:徳川氏の先祖と遊行上人
江戸時代に入ると、僧侶や寺院は、キリシタン禁圧による宗門改めや檀家制度などによって、次第に幕藩体制に組み込まれ、組織化されていきました。時宗も例外ではありませんでしたが、注目すべきことは、時宗は、幕府から教団体制の公認と手厚い保護を受けていたことです。
遊行寺の宇賀神
時宗には、室町時代に徳川氏の先祖が上野国から三河国へ逃れてくる過程で、遊行上人の援助を得たという伝承があります。
この伝承を伝えているのが宇賀神です。ここには、「遊行寺の宇賀神は、徳川家の祖先、得川有親(ありちか)公の守り本尊といわれ、有親公は、遊行12代尊観(そんかん)法親王(出家した皇子)の弟子となり、名を徳阿弥(とくあみ)と改めました。応永三年(1369)徳阿弥は、宇賀神に子孫繁栄を請い自筆の願文を添えて当山に勧請しました。」と書かれています。
清和源氏・新田氏の流れをくむ得川有親は、南朝方に加勢したせいか武士としては不遇の身となり、遊行僧となったといいます。その後、三河国の松平郷に落ち着き、彼から数えて九代目の子孫が家康となります。
この伝承を伝えているのが宇賀神です。ここには、「遊行寺の宇賀神は、徳川家の祖先、得川有親(ありちか)公の守り本尊といわれ、有親公は、遊行12代尊観(そんかん)法親王(出家した皇子)の弟子となり、名を徳阿弥(とくあみ)と改めました。応永三年(1369)徳阿弥は、宇賀神に子孫繁栄を請い自筆の願文を添えて当山に勧請しました。」と書かれています。
清和源氏・新田氏の流れをくむ得川有親は、南朝方に加勢したせいか武士としては不遇の身となり、遊行僧となったといいます。その後、三河国の松平郷に落ち着き、彼から数えて九代目の子孫が家康となります。
◆徳川幕府に公認された遊行活動
この伝承によって、32代普光上人が徳川家康の信頼を獲得。時宗遊行派を頂点として、類似の活動をしていた様々な集団を包摂し、教団体制の公認と保護を受けることになります。以来、遊行上人一行が全国を遊行に際して、馬五十匹(馬子を含む)を輸送用に無料で貸し与える認可を得、末寺住職任免権とともに「遊行」を幕府に公認させます。
全国津々浦々を遊行する上人の一行は、まるで大名行列を思わせるものだったといわれています。
この間の研究は、圭室文雄氏(たまむろふみお:明大名誉教授)の著書「江戸時代の遊行聖」(吉川弘文館)に詳しく、「遊行聖は近世には、実に生き生きとした信仰者、カリスマ的「生き仏」として崇められ、民衆に熱狂的に歓迎されていた。」と書かれています。
全国津々浦々を遊行する上人の一行は、まるで大名行列を思わせるものだったといわれています。
この間の研究は、圭室文雄氏(たまむろふみお:明大名誉教授)の著書「江戸時代の遊行聖」(吉川弘文館)に詳しく、「遊行聖は近世には、実に生き生きとした信仰者、カリスマ的「生き仏」として崇められ、民衆に熱狂的に歓迎されていた。」と書かれています。
一遍の像とお札
その理由は、
(1)名号を書いた札を上人自ら配り、受け取った民衆は現世と来世の安穏が保障されるという実にわかりやすい説得方法。
(2)とりわけ、上人みずから民衆に出向いて遊行するという方法は、時宗だけの特徴(他の宗教団体は、皆、民衆が、本山や霊場に赴く)
にありました。
(1)名号を書いた札を上人自ら配り、受け取った民衆は現世と来世の安穏が保障されるという実にわかりやすい説得方法。
(2)とりわけ、上人みずから民衆に出向いて遊行するという方法は、時宗だけの特徴(他の宗教団体は、皆、民衆が、本山や霊場に赴く)
にありました。
現在の時宗には、近世に隆盛をきわめた面影はありませんが、一遍の思想、中世の怨親(おんしん)平等の思想、阿弥衆による文化貢献、近世の「生き仏」の活動など「遊行」は豊かな歴史的な意味を背負っています。
(記事作成にあたって「一遍辞典(今井雅晴編)」東京堂出版を参考にしました。)
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 2020年06月05日