徳川家康の「中原御殿」
中原御殿」は平塚市総合公園の西側にありました。別名、ひばりの御殿(霊雀野御殿)とも呼ばれ「徳川家康」の宿所でした。
中原御殿」は平塚市総合公園の西側にありました。別名、ひばりの御殿(霊雀野御殿)とも呼ばれ「徳川家康」の宿所でした。
徳川家康の「中原御殿」
2021年4月14日 gantyan
「中原御殿」は平塚市総合公園の西側約1kmにありました。別名、ひばりの御殿(霊雀野御殿)とも呼ばれ、徳川家康の宿所でした。慶長元年(1596年)の造営です。それまで家康の休息所とされてた豊田本郷村の晴雲寺が文禄4年(1595年に)洪水被害にあったため、砂丘上の中原の地に造営されました。
現在、中原御殿の大部分は「平塚市立中原小学校」の校地となっています。東照宮も日技神社に移されています。その南東の角の石碑に、御殿の歴史が書いてあります。
その規模は東西78間(141m)南北46間 (101m)、面積4378|坪、四方に幅6間(10、9m)の堀がめぐらされていました。また鍵の手状をした御殿に至る道や、御殿内外に配された堀などの防御機能を持ち、豊臣方の勢力に備えた陣地の意味もありました。
以後、家康は中原御殿を拠点とした鷹狩りや民情視察のほか、御殿において大名や家臣との謁見、大名の改易、論功行賞なども行い、中原御殿は臨時に政治を行う場所としても機能していました。
中原御殿の造営にあたり、家康は小田原北条氏の旧臣で豊田本郷村に土着していた小川庄左衛門を中原に移住させ、御殿を中心とした道路や屋敷地の整備などのまちづくりを行わせました。
また御殿付属の鷹部屋、馬屋・御殿番屋敷、相模国中郡を支配する中原代官屋敷なども設けられ、中原村は御殿を中心とした城下町のような構造を持つ村になりました。
家康の没後、元和3年(1617年)3月20日に家康の枢が久能山から日光へ改葬のため立ち寄って以降、中原御殿は使用されなくなりました。そして、明暦3年(1657年)に解体されました。さらに元禄10年(1697年)には跡地に御林(おんばやし・幕府所有の林野)が植えられ、その後、東照宮の嗣も建立されました。
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 2021年4月14日