歴史探訪⑬
鎌倉時代の江の島と弁財天信仰
江の島の弁財天信仰は、頼朝の奥州藤原氏攻撃の戦勝祈願に始まる
藤沢の歴史書「わがまちのあゆみ」によれば
「1182年 源頼朝は、奥州藤原氏攻撃の前に鎌倉武士47人とともに江の島へ行き、文覚(もんがく)上人を招いて江の島に弁才天(べんざいてん)を勧請(かんじょう)し、戦勝祈願を行う。またこの時、頼朝は江の島に鳥居(奥津宮)を奉納した(吾妻鏡)。今日まで続いている弁財天信仰は、この時から始まり、江の島は鎌倉に隣接し相模湾に浮かぶ孤島で景勝地であり幕府の信仰地としてあがめられてきました。」とあります。
江島神社の全景絵地図
弁財天は武器を持った女神
江島神社は、欽明天皇(六世紀長ごろ在位)が島の洞窟(現在の岩屋)に神様を祀ったのがはじまりと伝えられ、神社には、辺津宮(へつのみや)、中津宮、奥津宮がありそれぞれ祭神とし三女神が祀られています。
江の島の歴史には、名僧による修験の霊場として多くの伝説がありますが、今日の弁財天信仰の江の島の始まりは、頼朝による奥州征伐の祈願にあるようです。
辺津宮
奈良時代の弁才天は、持ち物が武器を主体とした武神の性格を持っていたといわれます。
江の島の現在の八臂弁才天は、鎌倉時代のもので宇賀神と結びついて福徳の神に変化していますが、八本の腕(臂)が、それぞれに鉾・輪・弓・宝珠、剣、鉤(かぎ)・棒、矢など武器を持った女神です。
弁財天は辺津宮に祀られていましたが現在は奉安殿にあります。
江島弁財天像江島「八臂弁財天坐像」国指定重要文化財に -下記参照
https://www.enopo.jp/2017-08-26-14-18-45/mobile-hobiees/25662-2019-06-25-22-41-58.html
奥州支配は、河内源氏歴代の悲願
源氏の奥州攻撃は、頼朝の5代前に遡ります。1053年、陸奥守兼鎮守府将軍に任命された源頼義、義家親子が、武勲を上げ奥州の富を得ようと前九年合戦、後三年合戦起こします。後三年合戦では、大庭御厨を開発した鎌倉五郎も義家のもとで戦っています。
この合戦により源氏は武勲を上げ、東国を支配する基盤を固めます。
奥州は、源氏に協力した藤原清衡が陸奥出羽押領使に任命され、実質支配者となり、清衡ー基衡ー秀衡の三代にわたって奥州藤原氏が繁栄します。
江の島の歴史(鎌倉時代以降)ー「ゆみネットふじさわ」江の島歴史年表ー参照
武士が台頭してきた中世初期の日本列島は、西国の平氏、東国の源氏、奥州の藤原氏が鼎立し、奥州の藤原氏は、頼朝を背後から攻撃する恐れがありました。平氏を破った頼朝が、義経を保護した奥州藤原氏を攻撃し、鎌倉幕府の成立させますが、その起点、契機となったのが江の島の戦勝祈願だったことになります。因みに、5代前の頼義も、鎌倉の鶴岡八幡宮の前身「八幡若宮」に奥州征伐を祈願して勧請しています。(「流れをつかむ日本史」山本博文著 角川新書参照)
奉安殿(二つの弁財天が祀られている)
その後、北条時代、後宇多天皇が、蒙古軍を撃ち退けた御礼として、江島大明神の勅額を奉納し、このことから“戦いの神”としての弁財天信仰が広がり、東国武士たちが多く江の島を訪れるようになりました。
「戦いの神」から「芸能・音楽・知恵の神」へ
江戸時代になってからは泰平の世となり、江島神社は“戦いの神”から“芸能・音楽・知恵の神”として、また“福徳財宝の神”として信仰されるようになりました。1600年には徳川家康も参詣、代々の将軍たちも、病気の治癒、安産、旅行の安全などを祈願したと伝えられています。(江の島神社ホームページ)
弁財天も戦いの神「八臂弁才天」よりも、もう一つの「妙音弁才天」が、江の島詣で人気があったようです。「妙音弁才天」は、半跏(立膝姿)裸形での裸弁才天ともいわれています。