徳川家康ゆかりの大長寺と後北条氏
歴史探訪問(39) 徳川家康ゆかりの大長寺(大船)を訪ねます。
歴史探訪問(39) 徳川家康ゆかりの大長寺(大船)を訪ねます。
歴史探訪問(39) 徳川家康ゆかりの大長寺(大船)と後北条氏
2023年5月18日 (itazu)
歴史探訪問(39) 徳川家康ゆかりの大長寺(大船)を訪ねます。
大船にある大長寺は、3代玉縄城主北条綱成が開基した玉縄北條氏の菩提寺です。開山した大長寺の住職が、江戸の増上寺の法主だった時、徳川家康が帰依し、増上寺は、徳川幕府の菩提寺となります。以来大長寺住職と家康の密接な関係が続き、北条氏が秀吉に攻めらた時、籠城を解き開城するよう説得したのが大長寺の住職でした。
小田原城天守閣
毎年5月3日、小田原北条五代まつりが開かれます。
先ずは、後北条氏の歴史を見てみましょう。
先ずは、後北条氏の歴史を見てみましょう。
16世紀100年関東を支配した後北条氏
北条五代とは、伊勢宗瑞(北条早雲)を祖とし氏綱、氏康、氏政,氏直の五代約100年にわたり小田原城を拠点に関東一円を支配した戦国大名です。
それまで、相模国は、1333年鎌倉北条滅亡後、南北朝、室町時代は、幕府と鎌倉公方、上杉関東管領などの主導権争いの戦乱が続きました。
小田原北条五代まつり
小田原は、東海道の要所に位置し15世紀中ごろから大森氏が小田原城を築いていましたが1495年北条早雲がこの大森氏を討ち、小田原を関東支配の拠点としました。
北条早雲は戦国大名の魁(さきがけ)ともいわれます。
玉縄城は重要な支城
後北条の関東支配、特に相模国において見逃せないのが、小田原城の支城であった大船の玉縄城です。
玉縄城群は、江戸・北相模方面からの侵入と鎌倉、三浦を支配するために、東は大船から、西は藤沢の遊行寺近くまで広大な台地に本丸と4つの砦がありました
玉縄城群は、江戸・北相模方面からの侵入と鎌倉、三浦を支配するために、東は大船から、西は藤沢の遊行寺近くまで広大な台地に本丸と4つの砦がありました
小田原城、玉縄城の歴代城主
第3代玉縄城主 北条綱成は、今川氏の家臣で早雲の血縁ではありませんが、剛勇の士として有名で、小田原2代目城主氏綱の時、氏綱の娘を妻として北条一門となった人です。
玉縄城主の後見役として補佐してきましたが、氏綱の信厚く、3代目の玉縄城主となり、さらに関東制圧の砦であった武蔵の河越城主も兼務し、小田原3代目城主氏康の片腕として数々の戦果を上げ、関東一帯を支配に貢献しました。
左表は、後北条氏歴代城主(小田原城と玉縄城)です。
玉縄城主の後見役として補佐してきましたが、氏綱の信厚く、3代目の玉縄城主となり、さらに関東制圧の砦であった武蔵の河越城主も兼務し、小田原3代目城主氏康の片腕として数々の戦果を上げ、関東一帯を支配に貢献しました。
左表は、後北条氏歴代城主(小田原城と玉縄城)です。
大長寺は、3代玉縄城主綱成が開基した寺
その後、後北条氏は、秀吉の小田原攻めに屈し、衰退し、やがて徳川の支配下に入ります。
秀吉の侵攻に際し、玉縄6代氏勝は、玉縄城に籠城しましたが家康の勧めで降伏します。
そのきっかけとなったのが大長寺です。大長寺は龍宝寺、天獄院と共に綱成が開基した寺です。
大長寺
家康および大長寺の源栄の仲介で北条氏は降伏・開城
玉縄城も豊臣方の家康の家臣本田忠勝らに包囲されますが、
その時、大長寺の住職だった源栄は、家康の内命を受け、龍宝寺の住職と共に氏勝を説得し、開城させました。
大長寺の住職は、開山した感誉存貞(かんよぞんてい)が、増上寺の十世となり、その弟子源誉存応(げんよぞんのう)が増上寺十二世でもあったことから、家康は、この二人に深く帰依し、増上寺を徳川将軍家の菩提寺としています。
以来大長寺住職(存貞、存応、吞龍、源栄)は、家康と親交を結び、家康も当寺を厚く信仰し、鷹狩りの度に訪れていたといわれます。
大長寺の入口の階段は、家康を乗せた駕籠を横にして上がれるように幅広くしたといわれます。
藤沢は、玉城城下で遊行寺の門前町から宿場町へと転換
藤沢は、玉縄城主綱成の時代、玉城城下で遊行寺の門前町から宿場町へと転換してゆきましたが、徳川治世になってから、藤沢は、徳川の直轄領として江戸時代の宿場町として栄えてゆきます。
徳川政権下においても玉縄城は重要視され、家康側近の本多正信の居城となり、その後は1703年転封で廃城になるまで、徳川一門の松平氏の居城となっていました。
参照資料:「藤沢―わが町のあゆみー」(藤沢文書館)「小田原北条誕生500年記念シンポジウム資料」、「鎌倉の寺社122を歩く」(山折ーPHP)、ウィキペディア他
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。 2023年05月17日