歴史探訪43 「神奈川湊」ゆかりの
洲崎大神・大綱金刀比羅神社
歴史探訪43 「神奈川湊」ゆかりの
洲崎大神・大綱金刀比羅神社
2023年10月9日 (itazu)
歴史探訪43 :今回は、「神奈川湊」ゆかりの洲崎大神と大綱金刀比羅神社を訪ねます。
神奈川湊は、横浜市神奈川区にあった港です。(左図参照)
中世、近世の神奈川湊は、宿場と湊町の交通の要所として発展していました。
古代から、東京湾内海交通として、六浦、品川、富津、木更津とともに、神奈川湊が存在していました。
◆鎌倉時代は、鶴岡八幡宮の支配下にあって、六浦と共に東京湾をつなぐ湊として、また、鎌倉街道下道・東海道の陸路における要所でもありました。
当時は旧東海道沿いまで海(図のピンク部分は海)で、現在の京急本線「神奈川駅」近くの旧東海道沿い青木町に船着き場がありました。
この一帯は、江戸時代は神奈川宿として賑わいました。
今回、門前の参道の先に船着場があったとされる洲崎大神と
船乗りたちが海上での無事を願い出港していた大綱金刀比羅神社を訪ねました。
<洲崎大神>
洲崎大神(すさきおおかみ)は、1180年「石橋山の戦い」に敗れた源頼朝が、安房国(千葉県)一宮の安房神社に再起を誓い、本望を成し遂げた後、1191年に安房神社から分霊しこの地に祀ったことが始まりとされます。
神社前から海に向かって延びる参道が第一京浜に突き当たるあたりに神奈川湊の船着場があり、横浜開港後は、開港場と神奈川宿をつなぐ渡船場となっていました。
船着き場のあった場所に「洲崎大神御神幸お濱下り祭斎場」という碑がありますが、千葉の安房神社との洋上対面させる「御浜下り」の神事が行われていた記念碑です。(「神奈川宿歴史の道」横浜市)
<大綱金刀比羅神社>
平安末期の創立で、前身の大綱(飯綱)権現は境内後方の山上(高島台)にありましたが、現在の地に移り、琴平社を合祀し大綱金刀比羅神社となりました。
大綱(飯綱)権現にも、源頼朝にまつわる創建伝説があり、風や波の難から守ってくれる神として、眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗りたちから深く崇められていました。(神奈川宿歴史の道」横浜市)
<室町・戦国・江戸時代の神奈川湊>
◆室町から戦国時代の戦いでは、海賊が活躍しました。彼らは漁業や海運業に従事する海の民である一方、戦地に兵糧を送ったり船の出入りを監視する役目を、戦国大名(上杉や後北条)から請け負っていました。
◆江戸時代には、海上交通の発達により、西日本や東北地方など全国の湊から来航した船物資が集まり、さまざまな商品をもたらし、江戸や房総半島と横浜をつないでいました。関東の内陸部の川には高瀬船が運航し、横浜とも商品を通じた交流がありました。東海道が整備されてから神奈川宿として賑わいました。
◆江戸幕末には、アメリカに開港を要求され、宿場町として栄えていた神奈川宿に外国人を入れたくなかった幕府は、当時寒村だった横浜村(前出図参照)に横浜港を作り、神奈川宿から横浜港に至る道に関門をもうけ、関内として外国人居留地を限定しました。
近代の横浜は、この横浜港を拠点として文明開化が展開してゆくことになります
<参照資料:「日本史のなかの横浜」(五味文彦)、「鎌倉武士と横浜」(盛本昌弘)、「神奈川歴史探訪」(横浜歴史研究会)、ウィキペディア他>
記事編集に際しては諸権利等に留意して掲載しております。☑ 2023年10月05日