歴史探訪50:日蓮上人「松葉ヶ谷法難」の舞台となった安国論寺他
2024年6月4日 (itazu)
日蓮上人「松葉ヶ谷法難」の舞台となった安国論寺など3寺を訪ねました。
鎌倉時代の日蓮上人が草庵を結び、布教活動の拠点となった史跡が、鎌倉名越の松葉ヶ谷(まつばがやつ)にあります。
その草庵跡は、
◆安国論寺(立正安国論を著した岩窟がある)
◆長勝寺(日蓮の庵室跡)
◆妙法寺(日蓮在住19年の旧跡)
の三寺に残されていますが、どこが正式な草庵跡地かは確認されていません。
この松葉ヶ谷草庵は、日蓮四大法難のひとつ「松葉ヶ谷法難」の舞台となりました。
この松葉ヶ谷で、日蓮は『立正安国論』を著し、時の権力者北条時頼に提出しました。
『立正安国論』は、当時起こっていた地震、異常気象、疫病、飢餓は、法然を始めとする念仏宗や禅宗などの邪教に起因するものとし、幕府へ宗教政策の転換(正法を法華経とする)を促す内容であったため、権力者や他宗派の人々の怒りを買いました。
その結果、焼き討ちに遭い、布教を始めた1253年松葉ヶ谷法難から1271年の藤沢の龍ノ口の法難までの約18年間で4回法難に遭っています。
安国論寺の境内には、日蓮聖人が草庵として住んだ「御法窟」と呼ばれる岩窟があります。
南面窟(写真)は、日蓮が焼き討ちに遭った際に白猿に導かれて避難したといわれる洞窟です。
日蓮はここから尾根伝いにお猿畠の「法性寺」(逗子市)に逃れました。
また、裏山には、由比ガ浜海岸を含む市内を一望でき、日蓮が富士山に向け題目を唱えたとされる富士見台(写真)があります。
北条執権時代、極楽寺の忍性(律宗)、建長寺の蘭渓道隆(禅宗)、光明寺の良忠(浄土宗)、それに日蓮が加わり鎌倉新仏教が隆盛しましたが、この松葉ケ谷の安国論寺の裏山の岩窟や尾根を歩いてみると、鎌倉の町や海、富士が一望でき、その当時の舞台の痕跡を感ずることができます。
(参照資料:ウイキペディアなど)
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