「藤沢今昔」(7)江の島弁天橋、江の島大橋
昭和の藤沢と現在の写真を対比した「藤沢今昔」シリーズ、7回目は江の島弁天橋・江の島大橋です。
目次 「藤沢今昔」~江の島弁天橋、江の島大橋~ | | 江ノ島の表記について 普段なにげなく使っている「えのしま」という地名ですが、調べてみると、地図や住居表示はひらがなの「の」を使っているのに対し、郵便局や交通機関はカタカナの「ノ」と混在していますし、古くは「江島」などと書かれていたようで、有名な「江島神社」はこの表記になっています。これについては、それぞれ名前を付けた時代で公的文書の書き方も変わっていることから、それに倣っているようですが、「江ノ島」から「江の島」への変更は、昭和41年10月に藤沢市により新しい住居表示が施行され、また昭和44年1月には藤沢市観光協会により表記を「江の島」で統一する運動が行なわれています。ただし、「江島」「江ノ島」を使っている史跡や交通機関などについては、歴史もあることから、変更せずに現在に至っています。 | 江ノ島の歴史をひも解いて見ましょう およそ2万年前 江の島は、片瀬から離れて独立した島となりました。建保4年(1216) 江の島へ干潮時に歩いて渡れる様になったのは、この頃と言われています。その後長く干潮時には歩いて渡り、満潮時には渡し舟か人足が背負って渡っていました。元禄年間(1688~1704) この頃から庶民の間で弁財天信仰が盛んになり、江の島は厳島(広島県)竹生島(滋賀県)と並ぶ日本三大弁財天として信仰を集めてきました。参詣地として江の島が、全国的に知られるようになりました。江戸時代には負越賃は潮位によって決まっていましたが、他の所と同様ゆすり、たかりが多発していたようです。海に入らずに渡れる橋は島民にとっても参詣者にとっても長年の夢でした。明治24年(1891) 江の島に初めて桟橋(さんばし)が架けられました。 | この橋は、川口村営(洲鼻)で砂浜の先端からかけられました。たびたび大波で流出してしまうことが多く何度も架けかえければなりませんでした。 |
明治30年(1897) 江の島・片瀬(洲鼻)間に桟橋が完成しました。しかし、丸太を打ち、板を渡しただけの簡単なものだったので大波などで、すぐこわれました。明治29年から大正11年まで川口村村営となり、片道1銭5厘の通行料が課せられました | 大正12年(1923)関東大震災では桟橋が津波で流出し多くの被害が出ました。そのため永久架橋を望む機運が高まりましたが、うち続く不況と戦争などのため戦前は仮橋のままでした。 昭和23年10月(1948)まだ日本がアメリカの占領下にあったこの年新江の島桟橋架橋工事が始まりました。昭和24年 待ち望んでいた新江の島桟橋(江の島弁天橋)が開通しました。これにより人々は容易に江の島を行き来できるようになりました。江の島弁天橋という名前が決定されました。まだ有料で大人5円・子供2円(渡橋券) 昭和32年(1957) 弁天橋を全部コンクリート作りとする計画決定 昭和33年 7月架けかえ工事完成 昭和37年(1962) 昭和39年の東京オリンピック開催にちなみ、ヨット競技を開くためのヨットハーバー建設も行われました。それに伴い自動車で通行できるようにするため弁天橋と平行して江の島大橋(車道橋)も建設されました。 昭和38(1963) 無料となりました。 | | 昭和43年5月 5月初旬の天気の日、東浜の砂浜ではたくさんの人が楽しんでいます。 江の島へ通じる道路には島へ行き来する人も多く見られます。 | 江の島弁天橋 江の島大橋 橋 長 389m 324m 竣 工 昭和28年 昭和37年
| 江の島側から江の島大橋・江の島弁天橋をみる洲鼻通り沿いに、マンションが林立している。
| | 江の島弁天橋をわたる。両側の東浜・西浜では、ヨットなどマリーンスポーツが盛ん。 | | |
| (初掲載 2009-11-18・更新2020-4-15yukisann) |
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