片瀬地区は、明治時代となり風光明媚、かつ、温暖な保養地・別荘地として人気を博し、その後の宅地開発・造成へと展開した。
地区探訪(その11)片瀬地区
藤沢市内のいろいろな地区を順に紹介しています。第11回目は、片瀬地区です。 諏訪神社は8世紀半ば奈良時代に勧請されたと伝えられています。 片瀬丘陵の西側に点在する仏閣とそれらをつなぐ旧江の島道が中心となり、鎌倉時代には、花が開くように発展を遂げました。陸繋島である江の島は片瀬とは不離の関係を保ちつつ独自の歴史を展開しました。江戸時代になると、風光明媚な江の島は、鎌倉・大山を合わせて物見遊山の地として賑わいました。 (写真は、岩屋不動尊)
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| 【片瀬の仏教寺院】
片瀬地区の神社・仏教寺院は、片瀬丘陵の山麓に分布している。奈良時代8世紀半ば(723年)に信濃国一之宮から勧請されたと伝えられる諏訪神社上社・下社を含み、それらの史跡を結ぶ道は旧江の島道と呼ばれ、奈良時代から中世鎌倉時代を経て、地域の歴史を刻んだところです。寺院は、馬喰橋・新屋敷橋から南へ岩屋不動尊、泉蔵寺、諏訪神社上社・下社、密蔵寺、本蓮寺、常立寺、龍口寺と並んでいる。 |
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| 龍口寺、県下唯一の五重塔。本堂背後の仏舎利塔の場所が五頭龍が山となったという龍口山。 | 龍の口刑場跡。多くの処刑が行われた。 日蓮もここで斬首されるところだったが、 免れて佐渡に流罪となった。 |
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| 【常立寺】(しだれ梅、元国使の塚) (参考:平成23年「片瀬」昔物語 鈴木和一) 旧江の島道を南下して江の島方面へ向かい、県道と交差する手前東側に日蓮宗常立寺がある。早春には、枝垂れ梅の名所としても知られ、梅がほころぶ早春には多くの観光客が訪れる。常立寺はもともと龍口の刑場で処刑された罪人を弔うために建てられた真言宗の寺だったが、享禄5年(1532年)に日蓮宗へと改宗した。昔、付近は、片瀬川沿いの寂しいところで刑場となっていて、誰姿森(たがすのもり)と称されていた。源義経の首実検が行われた場所であり、大庭景親、和田義盛も刑死した。また、日蓮上人の法難もよく知られている。さらに、北条時宗の命により処刑された元国使の塚がある。1275年、元(蒙古)の使者杜世忠(とせいちゅう)ら5名がフビライの国書を携え、無条件降伏を迫って来日したが、時の執権北条時宗は徹底抗戦を決意、龍の口の刑場で処刑。その5人の亡骸を葬った所に五基の五輪塔が建てられた。 |
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お地蔵さまのお出迎え。門前の梅は満開 |
誰姿森・元使塚 |
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| ぎりぎり待ってみたが、しだれ梅は白梅も紅梅も3分咲き
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| 【片瀬の表記の変遷】(参考:平成23年「片瀬」昔物語 鈴木和一) 地名の由来については、藤沢地名の会元会長湯山学氏が著作「湘南物語」の中で『一説に、海水が流れ込み砂浜が長く伸びて河口で潟を作っていたところから、潟瀬かたせと言われたという』と記されている。太古の昔の片瀬川川辺の原風景を物語る地名であったと言える。
「かたせ」とは奈良時代の「方瀬」に始まるが、中世の紀行文吾妻鏡には「かた瀬」「固瀬」とされる。龍口寺にまつわる日蓮上人の御遺文の一節に『日本国の中に在っては相模の国、相模の国の中に在っては片瀬、片瀬の中に在っては龍の口に日蓮が命をとどめおきしことは・・・・・・・』と教典に書かれている。この「片瀬」文字が定着し使われたのは南北朝統一後のことであったと言われる。 |
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| 【江の島】 | ||||||||||||||||||||||||||||
| 弁財天と五頭龍の伝説(引用:天女と五頭龍の伝説~「江の島縁起」より 2012年1月10日号 広報ふじさわ…市民の広場)
出典:岩本院文書 (藤沢市文書館寄託) 昔、鎌倉の深沢村に大きな湖があり、「五頭龍(ごずりゅう)」と呼ばれる五つの頭を持つ龍が住んでいました。五頭龍は子どもをさらったり、田畑を荒らしたり、悪行を重ねてばかり。近隣の村人たちは困り果てていました。或とき、五頭竜は湖水の南にあたる津村(鎌倉市)に出て、人の子を食らいました。それからというものは、長者の子をはじめ十六人を呑みこむ等、竜の人喰いは止むことかありませんでした。 |
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| 【片瀬の近代化と山本家】(参考:山本庄太郎翁と片瀬村、長野邦茂 2004年) 片瀬の成り立ちと発展の歴史を考えるとき、山本庄太郎翁と子息たちの功績を忘れることはできません。 |
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山本橋。左は山本公園 |
片瀬カトリック教会 |
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| 【湘南モノレール】
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藤沢市内のいろいろな地区を順に紹介しています。第11回目は、片瀬地区です。 諏訪神社は8世紀半ば奈良時代に勧請されたと伝えられています。 片瀬丘陵の西側に点在する仏閣とそれらをつなぐ旧江の島道が中心となり、鎌倉時代には、花が開くように発展を遂げました。陸繋島である江の島は片瀬とは不離の関係を保ちつつ独自の歴史を展開しました。




三浦半島の付け根付近にある丘陵地帯を貫き、古都・鎌倉市街を経由せずに大船と藤沢市片瀬地区を短絡する。1970年 大船-西鎌倉間が開業、翌71年 西鎌倉-湘南江の島間が開業し、全線開通。










